1998年に芥川賞を受賞した藤沢周の中編。タイトル・クレジットの「ブエノスアイレス午前零時」と「屋上」の2編からなる。
98年当時は日本の現代文学作品を良く読んでおり、特に文学賞受賞作品は洩らさず読もうとしていた頃で、その中でも特にこの「ブエノスアイレス午前零時」は気に入った作品であった。
先日たまたま本棚で目に付き、実に10年ぶりに手に取って読んでみたが、やはり非常に良い。情景描写は儚げで美しく、文体はシンプルかつ落ち着いていてしっとりと心に響く。
タイトルからして舞台はアルゼンチンのブエノスアイレスかと思ってしまいがちだが、この物語の舞台は新潟と福島の県境にある、雪深い山奥の温泉宿である。
東京の広告代理店に勤めていた主人公の男はUターンし、この温泉旅館に勤めている。温泉旅館は社交ダンスの団体客受け入れを得意としており、宿の中にダンスが出来る大きなホールを備えており、主人公は「赤湯」と言われる鉄分の多い温泉の源泉に卵を浸け、温泉卵を作る業務を担当したりしつつ、ダンスの団体が入る際には、宿泊客のダンスのパートナーも勤めている。
ある冬の日、いつもの如くダンス同好会の高齢者団体の宿泊客がやってきたのだが、その中にサングラスを掛けた老女がいる。この老女、明らかに耄碌しており、記憶が過去に飛んで行ったり戻ってきたり、意識もハッキリしたり夢うつつになったりなのだが、主人公は不思議とこの老女のことが気になり始める。
周囲からの噂では、老女は遠い昔に本牧で娼婦をしていたとのことで、老女が語る夢物語にも、本牧で知り合ったのか、アルゼンチン・ブエノスアイレスの人物について語ったりしている。
夜に開催されるダンス・パーティーで、主人公はその老女を踊りに誘う。二人はタンゴのリズムに合わせて踊り、そして盲目の老女は見事なステップを披露しつつ、主人公の耳元に自らの脳裏に浮かぶブエノスアイレスの景色を囁き続ける。
30歳の男、東京を捨ててUターンした男の心情、本牧で娼婦をしていたという老女の夢うつつの世界。そしてタンゴのリズムとメロディー。それらが藤沢周の美しい文章で紡がれている。
久々に読んでこの世界観に敬服した。是非他の作品も読んでみたいと感じさせる力作だ。
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