「罪悪感」という言葉は誰でも知っているだろう。
では、この罪悪感という感情について、深く掘り下げて考えたことがある人は、どれぐらいいるだろうか。
昔流行った「コブラ」というマンガで、主人公が言う有名なセリフがあった。
「神か・・・最初に罪を考え出したつまらん男さ」
「罪」として「罪悪感」。
これらはいったい僕たちに何を与えているだろうか。
ちょっと考えてみたい。
「罪悪感」が9割 [心]
僕たちは驚くほどしばしば、罪悪感、つまり罪の意識を感じて日々生きている。
あなたはどうだろうか?
顧客への報告を忘れた。
ダイエットすると決めたのにお菓子を食べてしまった。
親に反抗的な態度を取ってしまった。
ラッシュアワーで人に押され、思わず強く押し返してしまった。
機嫌が悪くて思わず子供に声を荒げてしまった。
などなど、挙げればキリがない。
僕たちは常に罪の意識を漢字ながら生活している、といっても過言ではない。
キリスト教には「原罪」という考え方があり、人は生まれながらに罪深い生き物、という定義がされているそうだ。
上のコブラのセリフは、その「原罪」を作ったのが神なので、「最初に罪を考え出したつまらん男さ」という流れになっている。
しかし、人間が持つ感情の中で、「罪悪感」ほどくだらない、必要のないものはないのではないかと、僕は最近思うようになった。
「こんな贅沢をしちゃいけないんじゃないか」
「自分だけこんないい思いしたら罰が当たるんじゃないか」
「物事こんなに上手く行くはずがない。どこかで酷い目にあうだろう」
これらの罪悪感は、未来に対する不安である。
いまの自分がしていることを、そのまま受け取れず、「自分にはそれを受け取る価値がない」から、「分不相応なことをしていると罰が当たる」。
つまり、自分は罪深い、というロジックである。
「あのときあんなことを言わなければ、もっと自分は出世できたのではないか」
「あのとき彼女を傷つけた罪を僕は一生背負い続けなければならない」
「僕は嘘をついてまで人より秀でたいと思っていた。なんて愚かで罪深いことだ」
そしてこれらの罪悪感は、過去のできごとに対する後悔である。
起こった事実は変わらない。
どんなに後悔し続けたところで、過去の事実は一切変わらない。
どんなに贖罪(しょくざい)を誓ったところで、過去に自分がしたことは、消すことはできないのだ。
もちろん、過去の経験から学ぶことは大切だ。
大きな失敗をしたなら、その経験を反省して活かし、今後の行動を変えていき、次は同じ失敗をしないようにすればいい。
また、未来のできごとに備えることも悪いことではない。
まったく無防備でいるよりは、起こるべきことに備えて準備をしておくことは、とても良いことだ。
だけれども、それと罪悪感とは、実はまったく関係がない。
罪の意識は、往々にして、僕たちから行動力と考える力を奪い、僕たちを何もできない状態にしてしまう。
失敗した過去の罪悪感に縛られている人は、いまココにある、目の前の新しいチャレンジを拒んでしまう。
まだやっていないこに対する未来の罪悪感に囚われている人は、「どうせ自分には無理」「こんな大それたことはできない」と自分を卑下して、行動する前から諦めてしまう。
僕たちは無限の可能性の世界に生きているのに、そのほとんどを、罪悪感のために放棄してしまっている。
佐々木圭一さんの大ヒット作のタイトルを拝借すれば、まさに(僕たちを縛っているのは)「罪悪感が9割」状態なのだ。
そして、罪悪感がもたらす究極の言葉が、「分相応」「分不相応」だ。
分相応、分不相応の「分」とは、「身分」の分だ。
「こんな贅沢、分不相応だ」と思っている人は、自分がその贅沢を受け取る価値がない身分の人間だ、と思っている。
贅沢を受け取ることが、罪悪だから、受け取ってはダメ、という禁止令が自分に出ているのだ。
「この程度の暮らしが自分にとっては分相応だ」と思っている限り、その暮らしを突破して、新しいチャレンジをすることはできない。
本来の人間には、死ぬ瞬間まで、無限の可能性が与えられていると僕は思っている。
それなのに、多くの人が、罪悪感という鎖に縛られて、閉じこめられているのが、僕はとても悲しい。
罪悪感とは、世界観の一つであり、世界観は固定観念なのだ。
あなたの「罪悪感」は「事実」ではなく、単なる「あなたの思い込み」にすぎないのだ。
「こんな贅沢分不相応」というのは、「事実」ではない。思い込みだ。
あなたが自分がその贅沢を受け取る価値が十分ある人間だ、と、受け取れば、それは宝物にあるのに、あなたはそれを「分不相応」と受け取り拒否して、自己否定しているだけ。
受け取っていい贅沢も受け取ってはいけない贅沢もない。
その違いは、あなたが単に「ジャッジ」して「決めつけて」、「自分には価値がない」「自分は受け取れない」と信じ込んでいるだけ。
この仕組みが分かれば、すごく大きなブレイクスルーがやってくる。
それはなにか。
「自分の価値観の外側にも世界がある」と気づくことができること。
自分の外側にも価値観がある、自分の世界観の外側にも、たくさんのギフトがあって、あなたが気付き、受け取ってくれるようになるのを待っている。
その圧倒的な事実に気づいたとき、僕たちは無限の可能性の中を生きるようになる。
「自分には無理」「自分は罪深い」「自分はこの程度の人間」「自分には分不相応」。
これらの言葉が頭に浮かんだら、その外側を観るようにしてみよう。
自分が囚われている小さな世界観がもう小さく窮屈になって、外に飛び出したくなっている。
それが今のあなただ。
世界は広く無限の可能性に満ちている。
その世界に飛び出せるかどうかは、あなたが、その小さなあなたの「価値観」という箱から飛び出せるかどうかに掛かっている。
試してみる価値が、あるのではいなだろうか?
著者/出版プロデューサー/起業支援コンサルタント/ブロガー/心理カウンセラー。
あまてらす株式会社 代表取締役。
著書に「やってみたらわかった!40代からの「身体」と「心」に本当に良い習慣」「起業メンタル大全」「「好き」と「ネット」を接続すると、あなたに「お金」が降ってくる」「ノマドワーカーという生き方」など全9冊。
神奈川県鎌倉市の海街在住。