日常日記

ニュースとの距離 [日刊たち No.8]

日常
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ニュースとの距離感について最近考えることが多い。

今朝の空。ほんわかしていた。

 

 

 

僕はテレビを観ないので、ニュース番組も当然観ない。

新聞は日経を取っているのだが、最近これもあまり読まなくなった。

すると、当然ニュースはネットから摂取するのみということになる。

それで困っているかというと全然困っていない。

というか、むしろその方が情報の重要性と情報量のバランスが正しくなるような気がしている。

 

 

「重要性と情報量のバランス」とはどういうことか。

たとえば、先日京都で歩行者の方々が巻き込まれた自動車暴走事件があった。

僕はTwitterのリストの一つに新聞やNHKなどニュース配信速報アカウントばかりを入れているので、事件が起きた直後から事件のことは知っていた。

そしてその後のネットでの情報の拡散具合を見ていて、テレビではかなり大々的に報道されているのだろうと想像した。多分そうだろう。

確かに多数の方が巻き込まれた痛々しい事件だし、死亡した容疑者がどういう状況だったのかなど不明点も多いことは確かだ。

 

 

だが、これは事件または事故であり、その報道を延々と見続けることに意味はないと僕は思っている。再現性や汎用性がないのだから、そこから僕らは何も学ぶことができない。

いつ、何が起きたのか。原因はなんだったのか。その事件によって今後自分たちの社会にどんな影響が出るのか。それだけ知ることができればいいわけだ。

亡くなった方々の生い立ちや生き様などを情感たっぷりに伝えて涙を誘う番組は、言葉は悪いがもはや報道ではなく娯楽だ。

センセーショナルな事件がイコール重要なニュースというわけではない。

北朝鮮のミサイルにしてもそうだ。日本の領空に飛んでくる可能性があるのかは発射されなければ分からないし、テレビにかじりついようがいまいが、僕らにできることには本質的には何も変わりがない。

 

 

今の情報収集スタイルが最上なのかどうかは分からない。ただ僕にはどうも合っているようだ。

ネットを介してニュースは即時に飛び込んでくる。だがヘッドラインだけ見て、興味がある内容のものだけを拾い、それ以外はスルーする。

それでも十分すぎるくらい情報は洪水のように流れ込んでくる。

だからこそ、必要な情報の摂取に十分な時間をかけ、マスメディアが作ろうとする「国民全体の関心事」的な報道は、蓋をするぐらいのスタンスが丁度良いように感じている。

 

 

新聞も、そろそろいらないかなあ。

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