心・心理・あり方書評

嫌われる勇気 by 岸見一郎 古賀史健 — 自由に生きるために持つべき「嫌われる勇気 」7つのポイント

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「嫌われる勇気」を読んだ。

僕はよく「自由」について考える。

ブロガーとして、法人契約一切なしの、24時間365日自由な日々を謳歌している僕は、他人から見ればさぞかし呑気で気楽に生きているように見えるだろう。

確かに圧倒的な自由を僕は手に入れている。

しかし、たとえ肉体的な自由を手に入れていても、心が自由でなければ人生を謳歌することはできない。

最近強くそう認識している。

僕自身、3年前にフリーにはなったものの、心に幾つか大きな囚われを抱えたままでいるために、自分の肉体的自由を120%謳歌できない状態からのスタートだった。

その状態からさまざまな本を読んだりセミナーを受講したりし、試行錯誤を繰り返した結果、少しずつ、本当の自由とは何なのかが見えてきたように思う。

真の自由を獲得するための重要なキーワードの一つが「群れない」ことだ。

他人の人生を生きない。自分の人生を生きるためにも、となりの人と群れてはいけないのだ。

そしてそのキーワードに関して、深く掘り下げた本と出会った。

いま話題になっている、「嫌われる勇気」という本だ。

まさに僕が体験し、具現化してきた世界観がここにあった。

さっそく紹介しよう。

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自由に生きるために持つべき「嫌われる勇気 」7つのポイント

1. トラウマは存在しない

僕たちの人生には、コントロールできる部分とコントロールできない部分がある。

幼児期に自然災害により親を亡くしたとか、親から虐待を受けたなどの事実は、コントロールできないことだ。

このような苛酷な体験が心の傷となり、人間のその後の人格育成に悪影響を与える。

それを「トラウマ」と呼び、フロイトなどの心理学ではこのトラウマによって人格が決まるとする「原因論」を支持している。

しかし、アドラーはこの原因論を明確に否定している。つまりトラウマなどは存在しないことになる。

幼児期の虐待や自然災害などがあっうという事実は動かない。

しかし、その事実が原因でその後の人格が決定されるなら、幼児期に虐待を受けた子供は全員問題行動を起こす大人にならなければならなくなってしまう。

しかし実際には、用事の体験をどのように解釈し、どのように意味付けていくかは、人それぞれである。

子どもの頃に両親が離婚したら、必ずグレるわけではない。現に僕も両親は離婚したが、不良少年にはならなかった。

「過去の傷がトラウマになって引き籠もりになっている。外に出られない」というのは、本人がそのように生きることを選択しているにすぎないのだ。

「不安だから外に出られない」のではなく、「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考える。

それがアドラー心理学の考え方なのだ。

2. 人は怒りを「捏造」する

「カッとなる」「怒りで我を忘れる」

僕たちは自分の感情についてこのように語ることがある。

しかし、アドラー心理学では、これら「感情の暴走」をも否定する。

たとえば喫茶店で店員があなたの一張羅の上着にコーヒーをこぼした。

あなたはカッとなり店員を怒鳴りつけた。

これは怒りに駆られた人間が、我を忘れた結果の行動なのだろうか。

いや、それは違う。

この場合も、あなたは怒りに駆られて大声を出したのではなく、「大声を出すために、怒った」のだ。

もう一歩突っ込むと、あなたは「大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことをきかせたかった」。

その手段として、「怒りという感情を捏造した」のだ。

そもそも「客」と「店員」という、サービスを受ける側と提供する側の立場の違いがある。

大声を出して怒鳴り散らさなくても店員はきちんと詫びるだろう。

しかし、敢えてそこで大声を出すのは、無抵抗な相手をより安直な手段で屈服させようとしたにすぎない。

怒りとは、出し入れ可能な「道具」なのだ。

 

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