以前から自分の中に存在していることには気づいていた「勤勉ビリーフ」。
気づいていたけど、なかなか手放せなかった手強いビリーフだった。
これが先日ついに手放せて、解放できたように思う。
そもそも「勤勉ビリーフ」ってなによ?てところから書いてみたい。
いつも真面目に働かないとダメになる「勤勉ビリーフ」からの解放
真面目は良いことかもしれないけれど、「ダメにならないため」のマジメはどうなの?
世の中では一般的に「真面目である」ことは良いこととされている。
そして「適当」だったり「不真面目」だったりすることは、良くないこと。
そう定義されている。
でも、実はひとことで「真面目」といっても、真面目にもいろいろあると僕は思う。
今回「勤勉ビリーフ」と僕が名付けた心の囚われは、「真面目でなければならない」「真面目に生きないとダメになる」「常に一生懸命働かないと生き残れない」といった、「勤勉でないと」「真面目でないと」☞『ダメになる』というメカニズムで発生する。
自分で言うのもなんだが、僕は結構勤勉で真面目な方だと思う。
プロブロガーとして365日24時間自由だ、と言いつつも、だいたい毎日6時前には起きて仕事をし、家事もこなし、ランニングも1日も欠かさない。
反面僕はのんびりするのが苦手で、常になにかやっていないと落ち着かない。
勤勉で真面目なことが、心からの喜びで実行できているなら良いのだが、僕自身自覚があった。
「真面目にやっていないとダメになる」「コツコツ毎日頑張らない自分には価値がない」「勤勉に働かないと生き残れない」
こういったビリーフが自分の中にあることを。
だから、堂々と休んでのんびりすることができない。
怠惰よりは勤勉な方が良いのかもしれないが、勤勉ビリーフがあると、本人リラックスできないし、どこか息苦しい。
自覚はあるものの、どうしたら自分の勤勉ビリーフが外れるのか良く分からない。
そんな風に感じて生きていた。
鎌倉の海を見ながらワインを飲んでいるときに何かが弾けた
先日僕の中で大きな変化があった。
といっても、特別なキッカケがあったわけではない。
11月は仕事をすごく頑張って成果も出たので、11月30日の午後に、鎌倉の海を見ながら「ワインを飲んじゃえ」と思って、一人海を見ながら乾杯したのだ。
その日は平日で、午後3時過ぎはまだやると決めていることが残っていた。
僕は昼飲みをまったくしないわけではない。
たまに友達と集まって昼から飲んだり、家でも仕事がない日曜日に昼からワインを飲んだりすることはある。
でも、それは、もともと「午後は飲むから仕事はしない」と事前に決めている日限定のこと。
それが、11月30日は、まだやると決めている仕事があったにも関わらず、「あー、もういいやー今日はオシマイ!」と放り出して、ワインを飲みつつ海をボーッと眺めた。
そのとき、僕の中で何かが繋がり、何かが弾けたのかもしれない。
その日は特にそのことについて劇的なことが起こったわけではなかったが、数日後に自宅で奥さんと食事しながら話していて、ストンと、腑に落ちたのだ。
一年中勤勉に働き続けなくても、僕の価値はまったく減らない、という圧倒的事実に。
勤勉じゃなくても僕たちの価値は1mmも減らない
勤勉じゃなくても僕たちの価値は1mmmも減らない。
勤勉であることは悪いことではない。
でも、その勤勉さの発生源、原点が、「ダメになるワールド」では、それは本当に勤勉なのではなく、勤勉を装っているにすぎない。
「働かないとダメになる」「勤勉にしていないと食っていけなくなる」「毎日努力しないと生き残れなくなる」
これらはすべて、「怖れ」を原点とした、「ダメになるワールド」が行動原理となっている。
何もしないでいたら「ダメになる」から、それを回避するために、勤勉になっているわけ。
ということは、本当にやりたいことは、「勤勉」ではなく「ダメにならない」ことだ。
本当に勤勉でありたいのではなく、ダメになることを回避するための手段として「勤勉」を装っているだけ。
でも、それは本当ですか?
僕は平日の午後3時からワインを飲んでボーッとしたけれど、誰からも叱られなかったし、僕の価値は1mmも減らなかった。
勤勉であろうと怠惰であろうと、僕の「存在」に対する価値は増えたり減ったりしないのだ。
そのことが腑に落ちたら、すっごく楽になった。
働きたいときは働けばいい。
働きたくないときは働かなくていい。
勤勉でありたいなら勤勉であればいいし、ボーッとしたいならボーッとすればいい。
「ダメになることへの恐怖」、つまり「怖れ」を原点とする世界から、「どんなときも大丈夫」、「安心」を原点とする世界へのシフト。
これを僕は体験できた。
今までも何度もビリーフを解放させてきたけれど、今回の「勤勉ビリーフ」の解放は、「お金ビリーフ」の解放と並んで、非常に大きなものになるだろう。
「親から褒められたい」「認められたい」「叱られたくない」が原点かも
僕はカウンセラーでもあるので、当然この心の動きを分析してみたくなった。
そして辿り着いたのが、やはり幼少期の親との関係性だろう。
勤勉であることによって、「親から褒められたい」「認められたい」「叱られなくなる」という、子供にとってのサバイバル。
これが原点となって、「褒められるためにはちゃんとしなきゃ」「努力しなきゃ」「勤勉であらねば」という世界観を作ってしまっていたのだろう。
ビリーフは「世界観」でもあるので、外れてみないと自分がビリーフに囚われていたことに気づけない。
それまでは、すべて「事実」だと思っているのだから。
今回も勤勉ビリーフが外れて初めて、「自分は本当に勤勉なのではなく、怖れから逃れるために勤勉を装っていた」ことに気づけた。
この怖れを手放すことで、僕はまた一つ自由に生きられるようになった。
楽しんで真面目、楽しんで不真面目に生きよう
これからは、僕は、楽しんで真面目に生き、楽しんで不真面目に生きようと思う。
超真面目モードのときは、心から真面目であることを喜び、圧倒的なパフォーマンスを発揮して、喜びに浸ろうと思う。
そして、不真面目なときは、誰にも負けないくらいダラダラして、ぼんやりして、うつつを抜かして、時間をたっぷり無駄にしようと決めた。
誰から何をいわれるか、誰から怒られるか、誰からどんな目で見られるか。
それら他人目線を軸に、自分の生き方を決めるのは、もう終わり。
自分が真面目にやりたいなら、世界中の人が休んでいる日にだって働けばいいし、自分がのんびりしたいなら、世界中が追い込みでバタバタしている日にだって、一日ボーッと過ごしてもいい。
怖れを手放して、「ダメになるワールド」から「大丈夫ワールド」へ。
また一歩、歩みを進めることができたと思う。
まとめ
心の世界は奥が深く、ビリーフというのは玉ねぎの皮のように、剝いても剝いてもまた出てくるものだ。
でも、一枚ビリーフが剝けるたび、ちょっとずつ僕は純化し、昇華しているように感じる。
恐らくすべてのビリーフがなくなって完ぺきな状態になるなんてことは、あり得ないだろう。
いつまでたっても人間は不完全で、だからこそ人間なのだろうと思う。
でも、ちょっとずつ自分が囚われを脱ぎ捨てて、軽やかに、しなやかになっていることは、とても嬉しいし、楽しい。
こうなってくると、自分の心と向き合う「内観」は、もう楽しくて仕方がない作業になる。
こころがざわついたら「何かあるぞ」。
感情が大きく動いたら「ここにビリーフ見っけ!」。
これを繰り返しつつ、人はこころを浄化させていくのだろう。
さらに磨いていこうと思う。
参考書
心についての記事はこちらにも!もう1記事いかがですか?
著者/出版プロデューサー/起業支援コンサルタント/ブロガー/心理カウンセラー。
あまてらす株式会社 代表取締役。
著書に「やってみたらわかった!40代からの「身体」と「心」に本当に良い習慣」「起業メンタル大全」「「好き」と「ネット」を接続すると、あなたに「お金」が降ってくる」「ノマドワーカーという生き方」など全9冊。
神奈川県鎌倉市の海街在住。