エッセイ

自分を「無力な被害者」にする癖を止めると人生はすぐ好転する

エッセイ
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ものごとが上手く行かないときや、思ったように進まないことは良くある。

そんなときに、僕たちは自分のことを「無力な被害者」に設定してしまう癖を持っている。

この癖は、人類のDNAに組み込まれている、集合無意識レベルの大きなビリーフの一つだ。

「ああ、自分は何て運が悪いんだ」

「ああ、自分はどうしていつもこんな風に悪い結果を引き寄せてしまうんだ」

起こっている事象は、単なる事実だ。

それに対して、「自分は悲劇の被害者」という設定をして嘆いてしまうと、人生は好転しない。

なぜなら、「自分は無力」「自分は運が悪い」「自分は上手くいかない」という自己定義をしている人は、それらの悪い結果だけの「証拠探し」をしてしまうからだ。

そして、「ほら、やっぱり自分は無力だ」「ほら、やっぱり自分は不運だ」と、証拠を見つけて喜んで、無力で不運な自分で居続ける。

例えばレジャーに出かけたいと思っている日の朝に雨が降っていたとする。

日本に住んでいれば、一定の確率で雨は降るし、たとえば東京全域で雨が降っているなら、1,200万人全員が雨の朝を迎えている。

それは単なる事実であり、幸運も不運もない。

ところが、そこで「ああ、何て自分は不運なダメ人間なんだ」と思う人と、「ありゃ、雨が降ってるから予定を変えて家で映画を見よう」と、さらっと雨を事実として受け流せる人がいる。

起こっていることはすべて事実でしかなく、そこに「ストーリー」をくっつけるのは、人間の側であり、それは解釈だ。

どうせ解釈をするなら、「自分はいつも運が良い」「自分は強運」という解釈をする方が遥かに良い。

同じ理屈で、自分は強運だと思っている人は、強運である証拠だけを探し、それ以外は全部受け流している。

雨が降っている日は普通に受け流し、晴れた日にだけ「自分は晴れ男だ!」と叫べば良いのだから、簡単だ。

自分を無力な被害者に設定する人は、全部を運や宿命、それに周りの人のせいにして、自分の価値を高める努力を放棄する。

全力で努力をする前に、自分を被害者にして安住してしまうから、人生は好転しない。

起こっている事実には良いも悪いもない。

それをどう解釈するかだけ。

被害者に自分を置いて自分から逃げるのをやめれば、人生は思うがまま、あるがままになる。

だって、あるのは事実だけなんだから。

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