3. 人は常に「変わらない」という決心をしている
あなたがもし、「私は悲観的な性格だ」と思っているとしよう。
アドラー心理学では、性格や気質のことを「ライフスタイル」と呼ぶ。
ライフスタイルとは、人生における「思考や行動の傾向」である。
この考え方に立脚すると、「悲観的な性格」というのは、「悲観的な世界観を持っている」と言い換えることができる。
そして、ライフスタイルは自分によって選び直すことがいくらでもできるのだ。
幼少期や思春期などの過程においては、自分の意志では何ともならない不本意なことも多かったかもしれない。
生まれる時代や国、家庭などは選ぶことができない。これらはコントロール不可能な部分だ。
しかし、それらコントロール不可能な部分は総じて過去のことであり、ここから先の行動や思考は、自らの手で変えて行くことができるのだ。
いっぽうで僕たち人間は、往々にして「変わりたいけど変われない」と嘆いて生きている。
僕たちが変われないのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからだ。
僕たちは自分の行動を自らの手で選択することができる。
しかし、変化をすることには恐怖が伴う。コンフォートゾーンから出ることには抵抗があるのだ。
結果、僕たちは、いろいろと不満があるのに、結局は「このままのわたし」でいることの楽さ、安心を優先して「変わらない」と決めてしまうのだ。
僕たちに必要なのは「変わるための勇気」、「幸せになる勇気」なのだ。
4. 言い訳としての劣等コンプレックス
「変わりたいのに変われない」。
そう思う人の多くが、劣等感に苦しんでいる。
「どうせ僕なんかが何をやってもダメだ」「自分が好きになれない」という否定的な考えが首をもたげ、行動できなくなるのだ。
しかし、アドラー心理学では、この劣等感についても、人間が進んで選択して身につけているもの、と解釈する。
赤面症で好きな異性に声を掛けられないという人は、異性に声を掛けないで済むように、赤面症になるのだ。
なぜ自分が嫌いなのか。それは、人が他者から嫌われ、対人関係の中で傷つくことを過剰に恐れている結果なのだ。
アドラー心理学では、すべての悩みは対人関係の悩み悩みであると定義している。
そしてすべての劣等感は、客観的事実ではなく、主観的な解釈なのだ。
たとえば背が低いという事実は一つだが、それを「人より劣っている欠点」と捉えるか、「親しみやすいチャームポイント」と捉えるかは一つそれぞれだ。
主観であるからには自分で選ぶことができる。ライフスタイルを選び直すのだ。
さて、日本では劣等感と「劣等コンプレックス」という言葉が混同して使われている。
しかし、この二つには実は根本的な違いがある。
劣等感は、それ自体悪いことではない。
高い目標を掲げたとき、遥かな道を想像して劣等感を抱くというのは、ある意味正常な思考である。
その劣等感が、高い理想に向かって進む原動力ともなるのだ。
一方劣等コンプレックスというのは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態を指す。
「わたしは学歴が低いから、成功できない」というようなフレーズは、劣等コンプレックスの発露の形だ。
このような「Aであるから、Bができない」という論理を振りかざして、できない自分を外部要因に押し付けて正当化することを、アドラーは「見かけの因果律」と呼んでいる。
本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまうのだ。
もちろん学歴が低い人には、高い人と較べてハードルとなる物事があることは間違いない。
しかし、世の中には「自分は学歴が低いからこそ努力をして幸せになろう」と捉える人もいるのである。
「Aであるから、Bができない」のではなく、単に変化するための勇気がない、または、変化するより現状のままで楽をしていたい、いまのままでいたいだけのことなのだ。
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著者/出版プロデューサー/起業支援コンサルタント/ブロガー/心理カウンセラー。
あまてらす株式会社 代表取締役。
著書に「やってみたらわかった!40代からの「身体」と「心」に本当に良い習慣」「起業メンタル大全」「「好き」と「ネット」を接続すると、あなたに「お金」が降ってくる」「ノマドワーカーという生き方」など全9冊。
神奈川県鎌倉市の海街在住。