あなたの温もり 思うこと  不明編



1997年4月2日(水)

Afro Blue / John Cortrane Quartet

すれ違いざまに肩をぶつけてきた男の背中を睨みつける。

少しだけ右肩が下がっている。歩くたびになんとなく左肩が跳びはねるような感じに見える。

アブラを塗り付けたオールバックらしい髪の毛が水銀灯を無機的に反射し、男の姿は小さくなっていく。

繁華街から少し離れた小さな路地を入ると、そこに彼女のアパートはあった。

赤錆の浮く貧弱な階段を2階へと昇る。ドアの前に立つ。

ノックをしようとして一瞬躊躇する。突然彼女の部屋の中に誰か、自分の知らない男が潜んでいるような気がした。

繁華街を行き交う人々の発する騒音が混然一体となり、塊のように夜の空をダークグレーに照らし出している。この街に住んでいては、星の美しさに目を奪われるようなことはまずない。

犬の遠ぼえが、糸を引くように細く長く続いている。繰り返し細く長く、かんだかい声で鳴いている。

入口を照らす蛍光灯が切れかけている。断続的にはっきり灯ったり、薄暗くなったり、真っ暗になったりする。たとえ20ワットの蛍光灯の光りが一瞬途絶えたとしても、この街全体を乱反射する熱気を冷ますにはあまりに無力すぎるかすかな抵抗のように思えた。

思考を占領しようとする妄想を振り払うように、力強くドアをノックする。乾いたベニヤ合板のドアが、軽い反響音を階段付近に残しながら訪問者の存在を伝えようとしていた。


The Promise / John Cortrane

うつろな目をした彼女はまもなく油の切れた、きしむドアをゆっくりと開き、アゴで僕に部屋に入るように合図し、半分ドアを開けたまま部屋の中へと再び消えていった。

彼女の残像を失わないように、ヒステリックな感覚に支配された僕は靴ひもを解く時間をも惜しむように彼女の後に続いた。

部屋の中はいつも通り、古びたベッドと小さなコンポ以外には何もない、ガランとしたままだった。

ただいつもと違うのは、オレンジ色のチューリップが3本、コップに生けられていたことぐらいか。

彼女は僕の正面からやや右斜めに脚を少しだけ開いて立ち、じっとこちらを見つめていた。

「しばらくね。」彼女はベッドの上に放りだしてあったタバコを拾いながら、僕から目をそらさずに言った。

「誰かきていたのか。」

僕の質問に彼女は一切答えず、だるそうな身振りでタバコに火をつけ、時間をかけて深く吸った。

タバコをくわえたまま、彼女は冷蔵庫から缶ビールを取りだし、つっけんどんに僕に手渡した。

熱を持った内臓を抑え込もうとするかのように、僕は受け取ったビールを一気に飲み干し、大きく息をついた。


Alabama / John Cortrane


僕は無造作に財布の中に指を突っ込み、何枚あるのか分からないまま札を彼女にわしずかみにしたまま手渡した。彼女はそれをひどく無機的に受け取ると、無造作にベッドの脇に放り出した。

彼女が顎をしゃくり上げるような仕草をし、ベッドに視線を向けると、僕は自分で気付かないうちに彼女とベッドになだれこんでいた。

首筋から乳房に向かい、筋肉の流れに沿うように唇を這わせると、彼女の両腕が僕の頭を縛るように纏わり付いてきた。乳首を噛むように愛撫を繰り返すと、蒼く透明だった彼女の肌に赤みが差し始めるような気がした。肌に吸い付くように指は動き、やがて僕は声にならない声を発し、彼女を貫いていた。

動きを早める。

脚が腰にからみついてくる。

声が洩れる。

視界が白くなる。

空が見える。

彼女の声が長く赤く糸を引き部屋を満たした時、

僕はカラダを硬直させ目をきつく閉じ額から汗を噴き出させ、果てた。

一瞬の静寂を感じた直後、彼女の額は透き通るように蒼く、

部屋の蒸し暑さを忘れさせるようだった。

So Young / Suede


人込みでごった返す交差点のすぐ近くの花屋で僕はピンクのチューリップの花束を買った。

花と同じピンクのリボンをつけてもらった。

蒸し暑い夕暮れは空とコンクリを紅色に染めつつ、反対側の空は群青の世界で、人々の灰色の顔は水銀灯に照らされ影を作らなかった。

アブラを頭に塗った男が肩を弾ませながら僕の正面から歩いてきた。

蒸し暑い宵に黒のコートを着て肩を弾ませ僕に向かって歩いてきた。

手には小さなオレンジ色のチューリップの花束を持っていた。

すれ違いざまに男は僕の肩にぶつかってきた。

僕は男を振り返らず、そのまま路地を曲がり階段を急ぎ足で昇った。

花束を背中で隠したまま、彼女の部屋のベニヤ合板のドアを叩いた。

ドアは開かなかった。蛍光灯は交換され、青白くかよわい光りを群青と紅色が作り出す力強い夏の夕暮れに浮かぶ糸のような月の金色の光りと競うかのように輝いていた。

通り過ぎる車の排気音と人々の熱気の塊が生みだす騒音に包まれたまま僕はじっと立ち尽くした。

再びノックしたが返事がない。

僕は内臓からこみあげる衝動を抑えきれなくなりドアのノブを捻り、強く引いた。


She's not Dead / Suede

ドアは思いのほか簡単に開いた。奥にある窓はカーテンが開かれたままで、繁華街のネオンを乱反射させていた。

入口に立ち尽くしたまま、しばらく僕は呆然と部屋の中を眺めていた。灯は何もついていない。人の気配がない。

僕は靴を履いたまま、何かにとり憑かれたかのように部屋の中に入った。

部屋の中は蒸し暑く、よどんだ空気が濃密な有機質の存在を拒絶するかのようだった。

ベッドの上に彼女は裸のまま仰向けに横たわっていた。彼女の左の乳房にはナイフが刺さったままで、彼女の周囲にはオレンジ色のチューリップがばら撒かれていた。

窓の外には繁華街のネオンの明滅が定期的に繰り返され、

彼女の皮膚は蒼く透き通るようで、

部屋の蒸し暑さを全て忘れさせるように、

美しかった。


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