あなたの温もり 思うこと 不明編
1997年5月6日(火)
Dirty Boots / Sonic Youth
市電を麻布龍土町で降りる、南に向かって歩いていく。
鬱蒼と茂る桜並木の下、
初夏の透き通る大気の圧力に燃え上がるような新緑の木漏れ日の中、
額から噴きだす汗は玉となり額に滲み、
人通りの少ない界隈には子供達のはしゃぐ声が影のように響き、
懐からハンケチを取りだし汗を拭く。
二町ほど歩くとあなた様の屋敷はひっそりと木々に身を隠すかのように、
玄関で名前を呼びしばし待つ。
ほどなくハツが勝手より濡れた手を前掛けで拭きながら現れ、
お嬢様はまだ戻られません、と私に告げる。
それでは待たせてもらおう、
そう告げると私はハツについて座敷へと歩を進める。
じきにお嬢様も戻られますでしょうから、
ハツはそう告げながら私に茶を出すと、
そそくさと勝手に戻っていった。
縁側に出て空を見上げると、
生い茂った柿の葉が南風に煽られ、
カサカサと小気味のよい音を立て、
遠くで鳴く山鳩の声が5月の燃え上がるような蒼い空に、
吸い込まれていく。
Dirty Boots / Sonic Youth
あなたは縁側に腰掛け上着を放り出した私の背後から声を掛けた。
随分と良いお天気ね、
そう言うとあなたは私の脇に腰を下ろすと、
ふうーっと唇をすぼめるような仕草をし、
細く息を吐きながら、
私の顔を覗き込むように微笑んだ。
せっかくのお天気ですから少し歩きませんこと、
あなたはそう言うと大きな瞳を私の正面に据えたまま私の答を待った。
それじゃあちょっと天現寺あたりまで散策でも致しましょうか、
私はそう言うと放り出してあった上着を手に取り立ち上がった。
白いワンピース姿のあなたの長くて細い髪が、
縁側から吹き込む南風になびき、
夏の香を私に伝えるようだった。
Dirty Boots / Sonic Youth
ここのところの雨不足で川の水はいかにも頼りなく、
木陰に沿い歩く私達を包むせせらぎは、
細く糸を引くように深く蒼い空に溶け込んでいく。
麻布霞町に差し掛かるあたりで川は左に曲がっていて、
曲がりはなに大きな岩がある。
あそこに腰掛けましょうよ、
あなたは私の手を取り小走りに桜の古木の下の岩へと私を導く。
白っぽい岩に腰掛けると靴が水面に触れそうで、
周囲の熱気から少しだけ解放されたような心持ちがした。
桜並木のどこかから雲雀のさえずりが聞こえる以外、
熱気を孕む静寂を破るものはかすかな川のせせらぎのみ。
ああ、気持ちがいいこと、
あなたは初夏の陽光を銀色に織り込むように反射する川面を見詰めたまま、
静かに呟いた。
ああ、本当にいい気持ちだ、
私はサラサラと音を立てる桜の葉を見上げながらそう答えた。
銀色の川面を縫うように、
遅咲きの八重桜の花びらが、
ゆらゆらと揺れるように流れていくのを、
あなたと二人、いつまでも眺めていた。
あら、いらしてたのね、
笄川に沿った細い道をゆっくりとあなたと歩く。
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