思うこと
1997年5月10日(土)
夜明けのブレス / チェッカーズ
広尾の森に囲まれたチャペルは、くりぬいたような真っ青な空の下、何も飾りを纏わずに凛としてそこに建っていた。何の飾りもない木の板に両家の結婚式が執り行われることだけが記され、周囲は都会の中心とは思えないような静寂に包まれていた。受付もなく記帳もせずただ教会の入口にボーッと立っていると、高校時代の友人のシュウが声を掛けてきた。彼と会うのは高校卒業後初めてなので、9年ぶりということになるはずなのに、彼の顔は高校時代のまま何も変わらず、よおよおと声を掛け、まるで二、三日ぶりに会ったかのように会話が弾む。
やがて式を前にした新郎新婦が正装のまま姿を現す。とてもこれから式を挙げるとは思えないような気さくな雰囲気に、しばらくシュウを含めてバンド時代のライブの話やら海賊放送局の話などに花を咲かせる。
大学の職員らしい年配の女性が、小さな手持ちのベルを鳴らし、式が始まることを告げる。チャペルに入場した参列者は20人前後。大きなドームが祭壇の頭上に高く広がり、ステンドグラスを通して真っ青な空と眩しい太陽が透けて見える。
古びた木製のベンチに腰を下ろす。飾りのなにもないチャペル。スポット証明もマイクもスピーカーも何もない、古びたチャペル。全員が腰を下ろすと、開かれた窓からは小鳥のさえずりが聞こえ、心地よい初夏の風が通り過ぎる。
チャペルの入口の二階には、オルガンと聖歌隊がこじんまりと並んでいる。若い神父が静かに入場する。神父が一同に起立を求め、オルガンが結婚行進曲を奏でる。閉じられていた入口の扉が開き、グレーの燕尾服に身を纏った新郎が、今までに見たこともないような緊張した面持ちで入場してきた。オルガンの音に耳を傾けると、僕の顔には自然と微笑みが洩れた。
夜明けのブレス / チェッカーズ(cont')
眼鏡をかけた若い神父は、甘く深い声で、ゆっくりと二人の結婚を宣言し、新郎は緊張で裏返った声で、新婦はしっかりとした声で永遠の愛を誓い、古くから彼を知る僕やシュウは笑いを堪えるのに必死だった。マイクのない祭壇から、神父の説教が静かに天井のドームに反響し、やわらかく大気と融合し、糸のような残響だけを残して消えていく。指輪の交換。新郎の手が震えているのが遠く離れていても手に取るように分かる。新婦の顔に満面の笑みが溢れていた。神父も笑っていた。
信仰宣言のない説教。恐らくカトリック教徒でない若い二人の門出の為に用意された説教。「父と子と聖霊と」は一度しか出てこなかった。
新婦が新郎の腕を取り、新郎はドレス姿の新婦の足下を気遣いながら、ゆっくりと退場していく。オルガンでは二人の退場に合わせて結婚行進曲が流れる。僕達も新郎新婦の後に従う。
外は相変わらず抜けたような蒼い蒼い空と白い石でできた教会の外壁、そして緑の木々と鳥の声。
さらさらと流れるように、暑くもなく寒くもなく、眩しくもなく暗くもないチャペルで、鳥の声を聞きながら静かに行なわれた結婚式。
オルガンの音色がカラオケでなかったこと、神父がアルバイトでなかったこと、鳥の声がスピーカーから流れてこなかったこと、教会の外に次のカップルが順番待ちしていなかったこと、教会を出るとそこは緑の森だったこと、派手なBGMも流暢な喋りの司会ががなりたてなかったこと、シゴト関係の人間が一人もいなかったこと、披露宴会場が結婚式場ではなく、広尾の小さなレストランだったこと、会場の至るところに二人の子供時代からの写真が飾られていたこと、スピーチのBGMが新郎の弟のアコースティックギターだったこと、全てを二人でプロデュースした二人の気持ちが溢れた結婚式だったこと、誰も泣かせようと意図していないのにみんなが涙を流したこと、披露宴の後もみんなが新郎新婦の周りをいつまでも取巻いて離れなかったこと、広尾の坂を一人で帰るとき糸のように細い金色の月が見えていたこと、バスを降りて家までの間に糸のような月が低くなり赤く輝いていたこと、貰った小さなブーケの花の香りが部屋に満ちていること、
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