真夏の夜の夢 思うこと Summer Edition
1997年7月12日(土)
やさしい気持ち / Chara
何か漠然とした塊のようなものがグングンと喉元まで登ってくるのだが、まだうまく言葉にできていない。
時々息が苦しくなるような塊が喉元にしこっていて、カタチになろうともがいているのだが、
僕はまだそれをカタチにすることができない。
この塊は一体なんだろう。
分からないまま、今夜もこうして書き続けている。
磁性紀-開け心- / Yellow Magic Orchestra
親愛なる、ある日記作者はそう呟いた。
インターネット日記という、マクロなものをもし「芸術」と呼ぶのならば、それぞれの作者が日々書き続ける日記達はそれぞれが「作品」ということになるのだろう。
日々徒然系の日記を書く人もいるし、僕みたいに意味不明なものを書く人もいる。さらに毎日自分の書いたエッセイを掲載している日記も「インターネット日記」だし、写真やイラストを中心に構成されているものだって「インターネット日記」だ。
Webは画像を貼り付けることもできるし、背景色やテキストのポイント数など、見た目は工夫次第で自分のイメージにかなり近付けることができる。
自分自身で構成した画面を一切他人の検閲なしに世界中に公開することができてしまう、こんなに手軽で強力な表現手段はなかなか見つからない。
さらに、インターネット日記はテキストや画像等の情報以上のものを読む人に伝えてしまう力を持っている。
作者の感情や感覚を、そのテキストの色や画面の構成、さらに文章から伝えてしまう。
シンクロする時間軸とパラライズする距離感が生みだす高揚状態がインターネット日記に一種の魔力を与えている。
インターネット日記の魔力に心を奪われた人々はこぞって現実世界で充足することができない心の隙間を埋めてくれる日記の世界にのめり込んで行く。何年も隣に住んでいて挨拶もしないような現実世界の隣人よりも、太平洋を越えたはるかかなたのあなたのことを何百倍も良く知っていたりする。会ったこともないのに。
お互いの日記の魔力に憑かれた人々は、やがて現実世界に相手の存在を求め始める。日記から受けたショックが妄想を生み出し、そしてその妄想を現実化しようと試みる。
やがて愛する日記作者同士はお互いにオフミと称して現実世界で顔を合わせ、やがて友人へとその関係が変質して行く場合もある。
至極当たり前の話だし、僕自身もずっとそうして数多くの日記書きと実際会って飲んで、しまいには自分の恋人にまでしてしまった(笑)。
しかし、もし「インターネット日記は芸術だ。」という仮定を基準にして、芸術作品を鑑賞するという視点で日記について考えると、気に入った日記書きと片端から会っていくというのは決して良いこととも言えないのかも知れない。
他人が書く日記の魅力に取り憑かれてのめり込む要因のある程度の部位は読者自身の過去の経験や妄想や価値観から成り立っていると僕は考える。つまり、会ったことも話したこともない他人が書く文章中に、何か自分が共感する部分を発見したり、自分が好む構成であったりすることにより、未知の人物である日記作者の人格を読者自身が勝手に作り上げているのである。
自分が作り上げた他人の人格、自分が想う他人の生活、自分が描く他人の姿、そういったものがインターネット日記という作品を鑑賞する際には不可欠なのではないだろうか。
現実世界の友人と化した人間が書くインターネット日記には、それまで妄想が占めていた部位に現実世界の日記作者の容姿や性格等が流入し、読者自身がその作者の人格以上のものをも以下のものをも作りだすことを無意識に拒否させてしまう。著名な小説家の友人になると、何となくその作品を読むことが、純粋に作品に触れるという次元から、どこか「身内の知っている人間の文章を読む」という次元に変質してしまうように。
しかし実際にインターネット日記を「芸術作品」という認識のもとに日々書いている人間は非常に少ないのではないかと思うし、読む側も「芸術作品」を鑑賞するという意識ではないというのが現実ではないだろうか。
「楽しいから」、「気の合う人がいるから」と言った理由で日記に触れている状態がごく当たり前だと考えると、現実世界の友人へと変質していくことには何ら問題はない。
僕が今こうして書いていることは、恐らく極論であり、現実にはあまり当てはまらないものかも知れない。しかし、もしこの文章を読んでいるあなたがインターネット上で日記を書いている人であり、さらに現実世界で日記書きの人と会ったことがあるのならば、こんな経験はないだろうか。
現実に会ってからは、その人にメイルする機会がめっきり減った。会ってからは、読まずに飛ばす日ができた。
もちろん現実世界の友人となることがいけないと言っているのではない。僕が今こうして書いているのは一つの仮定に基づいた極論であり、一般論では決してない。
しかし、もしあなたが今、誰かのインターネット日記に恋をしているならば、あなたはその人に会うべきではないと思う。
なぜなら、あなたが恋しているのは生身の人間ではなく、インターネット日記の作者及びその作者が書く文章なのだから。
「芸術家」という認識がないまま「作品」を次々排出し続ける作者と、何の障害もなく作者へ直接メイルを出来るという環境が、読者の「ファン心理」を、現実味を持った「恋心」へと変質させて行くのではないだろうか。
もしこの文章を読んでいる皆さんが「インターネット日記は芸術だ」と思うなら、あなたは芸術作品である「日記」を一番大切に思うのだろうか、それとも芸術作品を輩出する人間を大切だと思うのだろうか。
現実世界で友人となることを優先するのか、それとも「作品」を優先するのか。
結局は読む人の価値観に委ねるしかないのだろうけれども。
うーん、結論の出ないようなことを意味もなく書いてしまった。なんだか眠れなくなりそう。しくしくしく。
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久し振りのバーボンをロックにして横に置いて今書いている。
「インターネット日記は芸術だ。」