真夏の夜の夢 思うこと  Summer Edition



1997年8月10日(日)


Whippersnapper / Wayne Krantz

ふとしたことから、非常に単純なことに気付いた。

神戸の小学生殺人事件に関する村上龍の文章を読んでいたのだけれども、夕焼けが目に鮮やかな中央線の車内で入院しているばあちゃんの顔と村上龍の文章を交互に頭の中でくるくる回転させていたら、妙な気分になってきた。

「子供達は野生に戻りたがってるんだ。」そんな言葉が頭の中にチラチラしてきて、読むことに集中できなくなった。

大人たちは言う、近ごろの子供達はテレビゲームばかりやってちっとも外で遊ばなくなった、と。

大人たちは言う、小学生のうちに頑張って勉強して私立の付属校に入っておけば後が楽だから、と。

大人たちは言う、近ごろの女子高生は援助交際なんてして、まったく何を考えているんだかさっぱり分からない、と。

大人たちは言う、今回のような残虐な事件の背景には、歪んだ教育と家庭に原因があるのではないだろうか、と。

大人たちは言う、日本はこの先いったいどうなってしまうんだろうか、と。



考えてみると何とも他人事のようであり、まるで傍観者のようではないか。

母親の胎内から生まれ出た赤ん坊には自立する能力は全くなく、完全に親に依存した状態で生活を始める。保育園や幼稚園に入るまでの子供は非常に狭いコミュニティの中で生存しており、一番強い影響を与えるのは当然親と家族ということになる。

生まれたばかりの赤ん坊は最初に不快を、次に快を知り、親の声を聞き親のカラダに触れ親の姿を見る。

子供達は生まれたばかりの時には当然まだ知性のない動物であり、成長に伴い人間として生活していく術を学んでいく。親の言葉遣いを真似たり、親の仕草を繰り返したりしながら、脳細胞の中に経験値を一つずつ刻み込んでいく。

子供達が外で遊ぶことを忘れ、一日中テレビゲームに夢中になるのは何故だろうか。そこに親の存在感の欠如を考えずにはいられない。言葉で「外で遊びなさい」と言うだけでは子供達にはその方法が分からないし、現代の都市のような環境ではそれなりに工夫しないと外で遊ぶということはなかなかままならない。テレビを見ていれば外での遊び方を教えるよりも遥かに大量のテレビゲームのCMが流れ子供同士での情報交換も活発になり、外で遊ぶ方法を知らない子供達はゲームを買ってくれと親にせがむようになる。

親はゲームを子供に買い与えることにより親としての責務を果たしたような気になり安心してしまうので、それ以上子供の遊びに関与したり遊びの内容を知ろうとしたりしなくなる。と言うよりも、親が自らの経験を子供に移植したのとは明らかに異質な、新たな遊びの世界には、親が入り込んで行くことができない、と言った方が正解かも知れない。

ごく最近まで、親と子の関係というのは、常に親から子への経験と知識の移植という作業を通じて成立してきたように思う。親は自分がかつて学び習得した知恵を子供に教え、子供は親から学んだ知恵を実践し納得し、親を尊敬する。しかし、現代の子供達に与えられている知恵のうち、親から与えられるものが果たしてどれだけあるのだろうと思うと非常に疑問を感じる。テレビやゲームやコンピュータと言った、親の経験から受け継がれる知恵とは無関係な部分で知識をどんどん詰め込まれる子供達に、親を尊敬しろと言ってもなかなか難しいのではないか、と言うのが僕の意見である。

子供達が成長し学校に入学すると、今度はエリート意識による階級付けを押し付けられる。良い大学に入り一流企業に入ることを至上命令とされた子供達は、本能として体内に備え持っている競争意識をむき出しにして目標へと邁進していくことになるのだが、果たしてその過程でどれだけの親が子供に最終的なゴールを見せてやることができているのだろうか。

一生懸命勉強して一流大学に入り、一流企業や官僚になることがどんなに魅力があり、少年時代を投げ打っても成し遂げなければならないものであるかということを、子供に納得させることができる親がどれだけいるのだろうか。「後で困らないから」、「きっと役に立つから」と言った曖昧な動機づけで子供達を鼓舞している親が多いような気がしてならない。

ではどうして親が子供にエリートコースへ進むことを鼓舞するのかを考えるとき、村上龍の言うところの「寂しさ」を僕も感じずにはいられない。もし親が自分の仕事と生き方に自信を持っていれば、「今一生懸命勉強して一流企業に入れば、お父さんのように楽しくて素晴らしい人生を送れるんだよ」と言う話ができるようになるかも知れないが、テレビのニュースから流れてくるサラリーマンの話題と言えば汚職やリストラや過労死や離婚、果ては自己破産と言った、あまりにも子供に将来を語るうえでは暗すぎるような話題ばかりに終始している。

うつろな目で日々会社との往復をしている親が子供の前で自分の全てをさらけ出すことなどとうてい出来ないのではないだろうか。子供に向かって「自分の背中を見て育て」と言えるだけ自信を持って生きている親がいったいどれだけいるのだろうか。

幼少の頃にはコンクリートと無機質な地域社会の中で放り出され、学校に入ってからは常に成績偏重の価値観を押し付けられて育つ子供達には、それ以上の夢を与えてやることのできる親がいない。親は絶望しているのだ。住宅ローンに追われ夫婦関係はぎくしゃくして会社ではリストラの風に怯え、親達は絶望し疲れている。父親は出張先でテレクラに電話して女子高生を買春し、母親は父親の留守を見計らって別の男を連れ込んでいる。親達は自信を持てず常に絶望し哀しみ何とか人生をやり直せないかともがき諦めせめてもの気晴らしにと家庭を忘れようと躍起になっている。誰もいない空っぽの台所で子供はカップラーメンを作り、テレビのワイドショーから流れ出すサラリーマンの悲哀を眺めて父親の姿と重ね、不倫の話題を見ては母親の姿とだぶらせる。

空っぽの台所で子供達は誰かに守って欲しいと願いつつ、それは叶わぬことと諦めようと努力する。空っぽの台所で子供達はカップラーメンをすすりながら、カラダを躍動させ大地を疾走したいという潜在願望を押し殺すように塾へと出かけ、憂さを塾の実力試験で晴らそうと努力する。

子供は願っているのではないだろうか。父親に狩の方法を教えてもらうことを、大地を走る方法を教授してもらうことを。

子供達は待っているのではないだろうか。母親に子供の育て方を教えてもらうことを、温かい料理の作り方を教えてもらうことを。

子供達は渇望しているのではないだろうか。本能が尊敬しようと努力している親達を本当に尊敬できる日がくることを。自らの未熟な思考や肉体が生み出す間違いをきっぱりと正してくれる威厳をもった存在を。

子供達は飢えているのではないだろうか。子供が子供として、親から守られて暮らすことのできる世界を。

子供達は恨んでいるのではないだろうか。自分たちをコンクリートと教科書と成績表でがんじがらめにしてしまう親の無責任さを。

子供達は嘆いているのではないだろうか。エリートになれなかった時に次の進むべき道を何も教えてくれない親の無策さを。

子供達は叫んでいるのではないだろうか。全ての親が自分自身に自信を持ち、自らの生きざまを晒し出してくれることを願って。

橋本首相や文部省の官僚が国家の予算を投じてどうこうすることではなく、一人ひとりの人間が自らの生活に誇りをもち日々生き続けること、それ以外に子供達を救済する方法などないのではないだろうか。

エリートコースをずっと進み続けられる人間はごくわずかであり、そのコースから外れた子供達がどう生きるべきかを教えてやらない限り、生きることに気力を持てない子供達の増加を抑止できないのではないだろうか。





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