真夏の夜の夢 思うこと  Summer Edition


1997年8月18日(月)

Fast Car / Tracy Chapman

5連休後の月曜の朝、6時に部屋の鉄のドアを開くと、外気は部屋の中よりもずっと涼しく、開ききらない僕の眼を心地よく開いてくれるような気がした。

ゆっくりと走り始めると、街はまだ眠っているようでもあり、並木の街道には微かに靄がかかり、もやの最後のカケラを振り払うような気分で、ゆっくりと走る。

冷気に晒されたヒマワリの花達は少しだけ寒そうに、それでも精いっぱい太陽に向かって笑顔を振りまいて、

終焉に近づきつつある夏の日の朝を満喫しているようでもあった。

半袖では肌寒いほどの夏の朝に、久し振りに夏の青い空が広がっていて、まだまだ終わらないぞ、っと頑張っているようだった。





Hey Lula / Yen Chang


さっきからずっとちょっと書いては消し、BGMを変えてちょっと書いては消し、またBGMを変えて、てのを繰り返してる。

今の気持ちを増幅させてくれるような音がなかなかなくて、イライラしながらバーボンを少し飲んだ。

散々悩んだ揚げ句、Yen Changを掛けてホッとしたりしている。

Hey Lulaを大音量で聴くと、ココロの中に大きなうねりのようなものがやってきて、

目の前でバーンと弾けるような、そんな錯覚に陥ることが時々ある。今もそう。

もう一年も前から、いつも日記を書くときには大音量の音楽がある。そして部屋の電気は消して、スタンドの柔らかい光だけにしている。

音と感情と文章は密接に関係していて、僕がこうして毎晩のように書き続ける文章に少なからず影響を与えている。音楽に全く接しない生活も平気で何年もしたが、今は音楽なしでは生活できないような気がする。

大学時代、そう言えばしばらくD.J.みたいなことをしていた時期もあった。

と言っても、よその大学の学際なんかの急造のディスコみたいな場所でやっていただけなんだけど。

だだっ広い体育館にBoseのスピーカー並べてミラーボールつるして。

どんどん人が入ってきて最初は静かに少しずつ盛り上げて。

もうちょっとで爆発するところでわざと焦らしたり(きゃー)。

最後はおらおら〜、いけいけ〜、て感じで絶頂に向かい、

バラードで〆る。

だいたいいつも「実行委員会」みたいなのがあって、そこのスタッフ達は妙にクラブ系の音とかに敏感な奴とかもいたりして、僕の選曲に難癖をつけたりするんだけど、

結局踊りに来る人達はそんなものはどうでも良い訳で、理性よりも神経に反響するような音の連続を求めているような気がした。

みんなが思い切り盛り上がってるのを特設のブースの中で独りタバコ吸いながら眺めるのは、すごく良いことをしたような気がして楽しかった。

もしチャンスがあれば、どこかでまたやってみたい。





Shakti / Yen Chang


教授の早い段階での復帰を待望する一読者としてこのような稚拙極まりない文献をアップしてみたりする訳ではある。

彼がどのような過程を経て現在の境地に至ったかを知ることは容易ではないように感じてはいるのだが、形而上学的に達観した教授の文章を暗喩をふんだんに用いて述べるということの豪奢さを知ってしまった私としては、直接教授にメイルなどして彼の潜在的罪悪感等に訴え掛けるのは甚だ不本意であることは、読者の皆さんにもご賛同頂けるところであろう。

ニーチェが「この人を見よ」内で述べている、ごく潜在的かつ普遍的状況に於ける「個」としての存在の意味合いなど、全く注目に値しないものであり、教授以下沈黙を凛として続ける外交官愛人の放つ「無」という最大級の主張を目の当たりにした時点で、凡庸なる我が魂の彷徨う先の何と覚束ないことであろうか。そこで露呈されるものはアイデンティティーの崩壊した自身にも同じ。

自己の崩壊し分裂した精神を病的に誇張させ露出させ続けるという手段を用い「個」の存在の確立を試みる「個」の一つ以外の何者でもない私と、同時に「個」としての崩壊の予兆を認識しつつも実存主義に立脚する「個」の存在を旧来の手段に於ては理解不能である「個」としての読者との相互依存と相互必滅性、さらに付け加えるならばエゴとしての「個」と「個」の衝突と相互の脆弱性の認知により、プルーストの強調するところの「無限の回帰性」を孕んだ相互愛撫が成立しうるということなのだろう。敢えてプルーストの一節を引用しないその必然性は、賢明な読者ならご推察の通り。

実存する「個」としてのアイデンティティーの崩壊を嘆く自らの精神構造の破綻について言明することは敢えて避けるべきなのかも知れない。記号の羅列として表現されるべき排他的存在に関して同じく排他的記号の羅列を列挙する方法でしか充足を得る方法を知りえない段階でのコミュニケーションの限界点は、この時点で自明であると言わざるを得ない。語りえないことについては、沈黙しなければならない。明示的に露出されるテクストに於ける「個」の自己表現と、「個」そのものの本質的露出であるべき放出されたテクストを内的に包括する並列的処理法の是非を問うには、この文章があまりにも稚拙でありまた同時にあまりにも多くの前例から脱却し極論に走っていると結論付けざるを得ない。「個」と「個」を無機的に結合させる因子の相互作用のもたらす精神的効果については、今後の研究成果の発表を待つことにしよう。















テキスト





追記:上述の文章はBun Bunを使わずに、いかにも使ったように僕自身が書いたものです。ちょっとしたいたずらのつもりだったのですが、誤解されてしまったようなので追記しときます。




 

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