秋の夜長に 思うこと  自閉編


1997年9月28日(日)

Norwegian Wood / The Beatles

 

僕は、20代という時代に一体何を得たのだろうか。

最近ふと考えてしまう。

僕にとって20代という時代は、ただ意味もなく迷走し混沌の中を彷徨っているうちに過ぎていってしまう時代なのだろうか。

10代の僕には、若さがもたらす無軌道な勢いがあった。もちろん無成熟であり、稚拙で感情的ではあったが、常に進んでいるという実感があった。かなりエキセントリックな生活をしながらも、常に自分というものを肯定することができていた。捜し求める「何か」を見つけるために、暴走していた。

無垢の時代を過ぎて僕は深い混乱の中へと向かった。それが丁度20歳の時だった。僕は自分が進むべき方向を見出すことができず、焦燥感と孤独感に包まれて大学に通った。卒業は僕にとって問題の解決ではなく、ペンディングであったはずだ。継続的に悩み続けることに耐えられなくなった僕は、労働とストレスと賃金と酒と地位が渦巻く現実世界に踏み出すことにより、自分の思考回路を分断した。

20代の半ばからの僕の生活は、まさに労働と賃金と残業に満ち、僕の脳細胞は見積書と原価計算と損益分岐点のグラフと数字によって埋められていき、僕の生活は請求書と月例会議を中心に回転を始めた。

無我夢中で働いている間に3年半の時間が経過し、僕の体には20キロの脂肪の塊がこの3年半の労働と思考停止状態の代償として纏わり付いている。

満員の通勤電車で同じように日々会社へと向かう人々に押され、僕はふと自分がペンディングにした問題はこの3年半にはまったく解決の糸口をも見出さず、単調に繰り返される日々の中で腐敗し始めていることを認識した。

僕は時間の流れに乗っているつもりで、時間の流れの中を無意味に流されていた。まるで今にも死に絶えようとしている老魚のように、逆らうこともできず流れに身を任せ、人生の急流をただ下っているのだ。

僕は今混乱してはいない。僕には自分がどうしたいのか、どうするべきなのか、そう言ったものが以前よりもはるかにハッキリと見えている。

今僕に一番必要なのは、3年半という時間の中で失ってしまった数多くの大切なものを、一つ一つ思い出し、個としての自分を取り戻すことなのだろう。

僕に残された20代はあと1年9カ月。その間に僕はどれだけのものを取り戻せるのだろう。

一歩ずつ進むことしか、今の僕にはできないのだが。



Come Together / The Beatles


三島由紀夫の「潮騒」という小説を読んだ。離れ島に住む漁師の若者と都会帰りの純心な女性の「純愛」を美しく描いたもので、純愛は純潔と直結し、黙して正しい行いをしていれば、必ずいつか神の加護に預かれるという内容のもの。

面白い小説ではあったのだが、どうにも「おとぎ話」を読んでいるようで、若い男女の愛情が安っぽい非現実に見えてしまって仕方がない。

暴走しようとする若い肉体を制御するのが道徳であり、倫理であり、信仰心であるという作者の主張は非常に明快であり、決して間違ったものであるとは思わないのだが、必要以上に純粋な登場人物の言動や思考が、1997年の東京に生活する自分の生活とかけ離れ過ぎていて、とても現実味を帯びた話としては受け入れることができない。

僕は信仰心もあまりないし、他人との協調性にも著しい欠陥を持った人間だとは思うが、僕個人がどうこうということよりも、現代の日本が進みつつある方向が、三島が美しく描いた世界からどんどん離れていこうとしており、そのギャップがもはや埋めることができないものになりつつあるために違和感を感じるのではないだろうか。

結婚までは純潔を守るということの是非を問うつもりはないが、純潔であるということが女性の美徳であるという固定概念をあまりに前面に出してくるのは鼻についてしまい、的外れな説教をされているような気分になってくる。

それでも読了した後に少しだけ懐かしいような暖かい心持ちになるのは、失われた世界に対する郷愁に近い感覚を憶えるせいなのかも知れない。




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