春の麗らの 思うこと  繚乱編


1998年5月12日(火)

Say It / John Coltrane Quartet


西新宿の高層ビル。

ガラス張りのエレベータに乗り込む。微かな振動と共にエレベータは音もなく僕を一気に地上数十メートルまで引き上げていく。エレベータの中には僕の他には髪の長い若いOLと、いかにも疲れた営業と言う感じの中年の男。僕は鏡に自分の姿を映し、ネクタイの結び目とスーツの乱れをチェックする。一分の隙もない。

27階でエレベータを降りる。硬質すぎず柔らかすぎもしない廊下からはイージーリスニングの音楽が静かに流れている。エレベータホールからは、眼下に広がる新宿の町並みが、まるで墓場のように広がっている。無数のビルや住居の合間を、まるで細菌のような車や人の影が、ちらちらと動き回っている。

厚いガラスに遮断され、騒音は一切聞こえない。無音の都会は僕に死んだ街をイメージさせる。村上龍の「コインロッカーベイビーズ」を連想させる、死んだ街。東京。僕が屋上からダチュラをまき散らしてやろうか。そんな妄想を抱きながら、ガラスに微かに映る自分の笑顔をもう一度チェックする。

エレベータホールを出て廊下を右に曲がると某社の総合受付がある。僕は訓練されつくした抑制の効いた声と、営業用第24番の笑顔を浮かべ、受付の女性に自分の名前と面会者であるF氏の名前を告げる。

某社の受付の女性はどこにでもいるような頭の足りない若い女ではない。気品の漂う中年の女性だ。おばさんなどとあなどってはいけない。もしあなたが営業マンで、年配の受付を小馬鹿にするようなら、きっとあなたはいつか自らの営業マンとしての目が不確かであったことを認識することになるであろう。

受付の女性はすらりと細く白い指でラップトップコンピュータのキーボードを軽快に操作し、僕の面会がリストにインプットされていることを確認し、ごく自然に顎を引きしなやかでかつ凛とした声で僕にソファーを薦める。

ソファーに座り1分もすると、面会先のF氏の秘書のMさんがヒールを響かせて現れる。紺のツーピース。タイトなミニスカートからはすらりと伸びる脚が薄いストッキングに包まれて滑らかに輝いている。Mさんは聞こえるか聞こえないかぐらいの静かな声で、「どうぞ」、と囁き、僕を促すように視線を投げかけ、僕が立ち上がるのを視界の隅で確認してから静かに歩き始める。

僕はMさんの後をついてエレベータホールへと向かう。彼女がボタンを押し、エレベータがやってくるまで彼女は身動き一つしない。まるで時間が凍てついてしまったかのようだが、エレベータの階数表示だけが現実の世界と僕とをリンクし続けている。やがて音もなくエレベータの扉が開くと、彼女は細くて指輪のない指でエレベータの扉を押さえ、再び「どうぞ」と囁く。僕がエレベータに乗り込むと彼女は静かに指を放し、開いた時と同じようにエレベータは音もなく閉まり、我々はガラス張りの密室で二人きりになった。

エレベータの中で何か話しかけようかと思ったが、仕事前の緊張感も手伝って、余計なことは言わないことにした。それよりも彼女の黒く滑らかな髪を眺めていたほうが幾分心が休まるような気がした。

彼女を包むコロンの香りが僕に届くか届かないかという短い時間を経て、再びエレベータの扉が開く。どんよりと曇った東京の空が微かに明るくなり、僕は彼女に導かれてF氏の許へと向かう。

F氏は部屋から出て、部下に何やら指示を出しているところだった。彼は秘書に導かれ現れた僕を見ると、小さく右手を上げて微笑んだ。僕が日本語で「こんにちは」と言うと、口許を僅かに歪めるように微笑み、不器用な日本語で「こんにちは」と答えた。

秘書のMさんは僕をF氏の部屋へと通し、コーヒーを運ぶとドアを閉め、去って行った。彼女のコロンの香りが微かに部屋に残っているような気がして、僕は椅子から立ち上がり、窓辺に寄って眼下に広がる無節操な都会の街並みを眺めていた。

ノックと共にF氏が書類の束を抱え部屋に戻ってきた。「It's nice to see you again」から始まるが、彼は握手を求めてこないのでホッとする。外国人と英語で商談をするとき、最初に握手から入るとどうも相手のペースに飲まれてしまうような気がするのだ。

彼はプラチナブロンドの髪をきれいに七三に分け、無造作な感じでムースか何かでまとめている。両方の目はきれいなブルーだ。まだ40前だろう。でも彼の名刺には取締役営業部長の肩書がある。恐らく出世街道の一貫として、日本法人の営業をしきっているのだろう。何年かしてアメリカに戻ると、きっと彼には本社の取締役の席が待っている、そんな感じだ。

「この会社始まって以来の規模の会議があるんだ」と彼は切り出す。「本社にいる僕の同僚達は、日本で国際会議を開催することがどういうことなのか、全く理解していない」と彼は皮肉っぽく笑う。視線の先には山のように積まれた書類の山だ。「日本のマネージャ達はこの山のような資料を英語で読みながら英語の会議なんかに参加できないってことが全然分かってないんだ」

商談が続く。彼はホワイトボードに彼の意見を書き込んでいく。途中でインクがでなくなると、無造作にペンを投げ捨てる。彼は上着を脱いでシャツとネクタイだけになっているが、贅肉は驚くほどなく、まるでフットボールの選手のような感じがする。英語で話している場合、僕は少しでも聞き取れなかったり理解できなかった場合は相手が喋っている途中でも堂々と相手を遮ってもう一度言い直してもらう。英会話学校だったら分かりませんで済むが、ビジネスで分からないのにYesと言ってしまったら大変なことになる。従って会話は時々容赦なく断絶させられる。

おおまかな部分で商談が成立し、実務的な部分に話が及ぶと、F氏は秘書のMさんを呼んだ。扉が開き彼女が入ってくるとそれまでピンと張り詰めていた部屋の空気の濃度が変化する。彼女は銀色のボールペンで簡単にメモを取り、僕とF氏の質問に答え、自分からも質問をする。

彼女は喋った後にちらりと僕の方を見て微笑む。照れているのだ。外国人と英語で会話をするのは当たり前のことで恥ずかしくないのだが、そこに見知らぬ日本人が加わっていると妙に照れることがある。今日がそうだった。F氏と僕が二人で話している間は何てことなかったのだが、そこにMさんが加わることによってバランスが崩れた。照れて上目使いに僕を見て微笑む彼女のピンクの唇を見る。Mさんの英語は完全なアメリカ英語だ。F氏は体格やルックスはいかにもアメリカ人だがきれいなクイーンズイングリッシュを使う。東部エスタブリッシュメントなのだろう。

商談の細かい部分も問題なく解決し、F氏は日本語で「よろしく」と言って部屋を出ていった。部屋にはMさんと僕が残った。Mさんは照れたような微笑みを浮かべ、彼女が部屋に入るまでの商談の進み具合を僕に確認してきた。散々英語で話した後で、二人きりになって日本語で話すというのも妙に照れ臭いものだ。

部屋に入った時と同じように彼女のコロンの香りに導かれるように部屋を出て、エレベータホールまで送ってもらう。エレベータの扉が閉まるとき、彼女のピンクの唇が微かに開き、何か言葉にならない言葉を囁いたのを見届けて、僕を乗せたエレベータは1階へと音もなく下降を始めた。

微かに残る彼女のコロンの香りを味わいながら、僕はガラス張りのエレベータの中で一人、ネクタイの結び目を少しだけ、解いた。




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