思うこと


1998年5月26日(火)


Darling Nikki / Prince and the Revolution

人間は弱い生き物だと思う。

生まれてから自分一人の力で生活できるようになるまでに、人間ほど長い期間を要する動物は他にはないのではないだろうか。キリンやウマの子供達は生まれてから数時間で自力で立ち上がり、母親の乳首まで歩いていくが、人間の赤ん坊は自力で母親の乳首を探すことはできない。

人間の子供は肉体的にも非常に弱いが、精神的にも非常に脆い。幼年期に親の愛情を十分に受けることができなかったり、肉体的、また精神的に虐待を受けた子供は深く傷つき、そしてその傷は容易に消えることはない。幼年期に受けた心の傷は子供の心を深く抉り、肉体の成長と共に傷も成長していく。そして体の中に巣くった傷は、様々な形で成長した人間の精神に影響を与え、人格の一部として生涯その人間から離れることはない。

幼年期に精神的に深い傷を負った人間は、消すことのできない傷と対峙し、対決する。または傷に肉体を乗っ取られ、傷に操られるように生きる場合もあると思う。

しかしいずれにしても、選択肢は非常に限られていると思う。傷を負った人間にできることは、傷を認識し、受け入れることだ。どんなにその傷の存在を否定しようともがいても、傷は精神を離れることはないのだ。存在を否定しようともがけばもがくほど、傷はより深く人間の心を抉り、より柔らかな部分にどっしりと根を張ってしまう。

ただ単に傷の存在を認め、傷と共生していくことが正しいことだとは僕は思わない。傷を認識し、対峙し、そしてその傷を昇華させなければならないのだが、これは端で言うほど簡単なことではない。ネガティブ方向のベクトルを、何らかのきっかけをもとにプラスに転換しなければならないのだが、この「転換」のきっかけは、必ずしも自発的なものではなく、外的要因に基づくケースも多いのではないだろうか。本人がどんなに自分のネガティブ要素をポジティブに転換したいと願っても、自分を取り巻く外的要因に縛られて果たせないということも十分に考えられる。

どうしてこんなことを書いているかと言うと、今日、内田春菊の「ファザーファッカー」という小説を読了したからだ。

厳格な家庭を装い、日常的に暴力を振るう養父によって何度も犯され、精神的にも迫害され、実母はそれを黙認し、最後には家を飛び出す高校生の話しなのだが、未確認ながらこれは実話であるという。

非常に心の痛む小説なのだが、僕は読んでいて徐々に腹が立ち始めた。それは養父の無軌道な行動に対してでもなく、実母の無責任な言動に対してでもない。それははっきりとしている。バカで無責任でどうしようもない大人なんて、有史以来それこそ本当に掃いて捨てるほどいるのだから、今更どうしようもない大人がいるという事実には腹は立たない。

最初読んでいて、僕は小説の主人公に対して、というよりも作者に対して腹を立てているのかと思った。生まれてからの恨み辛みをひたすら暗く語り続ける主人公(作者)に、「お前なに文句ばっかり言ってんだよ」という怒りが込み上げてきたのかと思った。

だが読み進むうちに、僕は主人公に対して腹を立てているのではないことに気付いた。では何に対して腹を立てているのか。それは、人間の、特に子供という存在の、目に余るほどの脆弱さに対してだ。

暴力を振るわれる、言葉で罵られる、バカにされる、無視される、自由を奪われる、性的に迫害を受ける、これらの行為を黙して受け入れさせ、傷として残してしまうのは幼児期の人間の脆弱さだ。それは肉体的な弱さでもあり、経済的な弱さでもあるが、それよりも精神的な弱さなのではないかと僕は感じる。

自分が受容れられないような価値観を押し付けてくる大人に対して、はっきりと「嫌だ」と言えない子供の一番のネックポイントは、殴られて黙らされることであり、経済的な加護を受けられなくなることであり、そして細胞の隅々にまで染み付いている、親に対して保護を求める本能なんだと僕は思う。

どんなに迫害されても、幼児期の子供は完全に親を憎悪することはできない。子供達の一つ一つの細胞は必死に親の愛情を求めて生き続けている。迫害を受けるという行為自体は憎悪できても、迫害の元凶の親という存在を憎悪することは幼児にはできない。迫害に怯え、泣き、震えても、親という存在を憎悪することができないように、親の愛情を受け入れるように細胞に情報がインプットされてしまっているのだ。

愛情を求める本能が満たされず、逆に虐待を繰り返され続けることにより、幼児は両手に抱えきれないほどのストレスを溜め込むことになるのだが、そのストレスを外に発散する方法を彼等は持っていない。家庭という非常に閉鎖的な環境に置いて監視され、肉体的にも経済的にも自立できない子供は、溜め込んだストレスを抱えたまま、ストレスの存在に気付くことのないまま、歪みを抱いて成長せざるを得ない。

僕が苛立ったのは、この、子供の弱さに対してなんだと思う。

主人公の言動や認識に対して苛立っているのではなく、子供という存在の、どうしようもない弱さ、傷つけられても反撃できず、その場から逃げ出すこともできず、忘れることもできず、ただひたすら傷を抱え込んだまま生きなければならないという弱さ、これが僕を苛立たせる。

そしてさらに僕を苛立たせるのは、傷を抱いたまま育った人間は、必ずその幼年期に受けた傷によって支配されてしまうということだ。

子供は成長し、肉体的にも経済的にも少しずつ自由を獲得し始めるのだが、幼児期に抱え込んだ精神的なストレスを完全な形で取り戻すことは不可能だ。しかし、乾ききった細胞はかつて得ることのできなかった無条件で全能の愛情を求めて驀進してしまう。肉体は大人でも心の奥に幼児期の乾きを抱いたままの人間は、肉体的金銭的な自由を得ると共に、今度は自らの精神的な問題に突き当たることになり、そしてその精神的な問題というのは、当然のことながら幼児期に受けた傷に起因するものだ。

歪んだまま思春期を通過し、乾いたまま放置されてしまった細胞は、人間の心にネガティブに作用する。極端に排他的になったり、ヒステリックに自虐したり、他人を無意味に攻撃したり、時には自分の肉体を傷つけようとしたりする。

自らのネガティブな言動の原因に気付いたものはかつて傷を与えた者を恨み、傷つけようと試みるかも知れないし、原因に気付かないものは、原因不明の乾きに振り回されるようにして他人を傷つけ、自分も傷つくかも知れない。いずれにしても僕が言いたいのは、子供は虐待を受容れざるを得ない状況にあり、その傷を抱いたまま成長した大人はその傷を容易にいやすことができない。そして僕はその事実に対して苛立っているということだ。どうして人間の子供はこうまで弱く設計されてしまっているのか。どうして人間はここまで不完全であり、また傷に対して無防備であるのか。

そんな、ごく当たり前のことに、ひどく苛立ってみた。

延々とネガティブなことばかり書いたが、僕は最後まで読み終わって、少しだけ希望を持った。それは、内田春菊がこの小説を書き終えたことにより、深く長い呪縛から解き放たれたのではないか、という希望である。

絶望の真っただ中にある人間は自分の絶望の全貌を知ることはできない。「俺は辛い」とか、「こんな苦しみは誰にも分からない」という、進行形での表現はできたとしても、自分の絶望を分析したり、総括したりすることはできない。

「ファザーファッカー」を書くことが、彼女にとって、自らの暗く長い絶望と乾きの季節を改めて認識し、総括するものだとしたら、彼女は自らの乾きを彼女なりの方法で昇華させることができたのではないか、と僕は希望的にだけれど思う。

この小説が事実に基づいたものだという前提で考えているが、この小説を出版することには猛烈な苦痛を伴ったであろうと僕は推測する。乾きかけた傷口に指を突っ込んで掻き毟るような苦痛が彼女にはあったのではないだろうか。

それでも彼女が「ファザーファッカー」を執筆し、出版したのは、彼女が自分の中にどっしりと根を張った傷を認識し、昇華させ、傷を過去のものに追いやる為に、不可欠な行為だったからなのではないだろうか、と想像した。

「ファザーファッカー」、痛い小説だ。


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