思うこと


1998年6月2日(火)


Some Like It Hot / The Power Station

下田治美という人の、「愛を乞う人」という小説を読んだ。

不機嫌さんの推薦で読んだ小説なのだが、物凄く色々なことを考えさせられた。

先日読んだ内田春菊の「ファザーファッカー」と似ているようで、実は対極的な小説なのかも知れない。

少女時代の不遇な境遇というのは似たり寄ったりなのだが、本人の向いている方向が全然違う。ここで言う「本人」というのは、少女時代の主人公のことでもあり、また同時に作者のことでもあるのだと思う。

ダラダラと書くと支離滅裂になりそうなので手っ取り早く書くけれども、要は不遇の原因を外的なモノに置き換えるか、それともその不遇な状態自体を自分の中に取り込んで自分の一部にしていくか、ということだと思うのだけれども。

印象的だった言葉は、「愛の乞食」。顔が腫れ上がり血が止まらなくなるほどせっかんされ続けても「母」という存在自体に無償の愛情を求め続ける人間の本能を認めている分、「愛を乞う人」には救いがあり、「ファザーファッカー」にはまだまだ終わりが見えない。

そういうことなのだろうか。

で、せっかくなので自分に置き換えてちょっと考えてみよう。

まず根本的に考えなくちゃいけないのは、僕が幼少時代に幸せであったか否か、ということだ。

これは単純に、僕は幸せだった、と言える。僕は多分当時僕の周りにいた子供達以上に幸せな幼少期を過ごしていたと思う。

僕が生まれた当時、二人ともミュージシャンだった僕の両親はかなり裕福な生活をしていた。父親の実家に住んでいたから家賃もいらなかったはずだし、昭和40年当時に白のオープンカーを乗り回していて、申し訳程度にくっついていた後部座席に自分のテナーサックスを置いておくなんて、かなりキザなことができたのも、なかなか金持ちだったからできたことに違いない。

僕も幼稚園までは私立のカトリック系の、いわゆる慶応幼稚舎だの学習院初等科だのに進んで行くような豪華絢爛なところに通っていたし、夏になると毎年ホテルのプールの会員になっていた親に連れられてプリンスホテルのプールに毎日のように遊びに行っていた記憶がある。

そんな時代がいつまで続いて、どこでどのように終わったのか、僕はハッキリとは憶えていない。ただ、両親が西麻布でピアノバーを開いた頃から、僕の家から急速にお金がなくなっていったことは確かだろう。

ちっちゃな店だ。ホントにびっくりするぐらい小さな店。それでも一応西麻布だ。家賃だってバカにならなかっただろうし、店の経営を始めると同時に両親とも他の音楽活動を一切止めてしまったから、収入は激減したに違いない。父親は商才がない人だったみたいで、よせばいいのにピアノバーの上の階も借りて、そこに雀荘も始めていたのだが、これが見事というぐらい客が入らなかったらしい。

多分、家からお金がなくなっていくのに比例して、僕の両親は不仲になっていったような気がする。元々お金があって当たり前という生活をしていた人間二人が集まって家庭を作った訳だから、あって当たり前のお金がなくなった時に、きっと上手に解決することができなかったんだろう。ちょっと気の毒だ。

結局両親が経営したピアノバーは、両親の離婚を以て閉店となり、母親は音楽活動を再開したが、父親はそのまま二度とジャズシーンに戻ってくることができなかった。父は母と別れた後、一円の慰謝料も養育費も払っていない。母が突っぱねたという話しを親戚から聞いたけど、真相は知らない。父はその後水道橋の後楽園球場のすぐ近くに再び店を出したけど、やっぱり2、3年しかもたなかった。

何度か水道橋の店に遊びに行ったことがある。球場と遊園地のすぐ向かいで、立地条件としては素晴らしかったと思うのだが、やはり才能がなかったのだろう。当時の父は、店の入っているビルの最上階を自室として借りていて、僕はそこにも行ったのだが、それこそ足の踏み場がないぐらい汚くて、錆びたテナーサックスが埃まみれで打ち捨てたように転がっていて、なんだか寂しかった。

その時以来、僕は父と話しをしたことがないんだけど、でも別にそれほど大いなる不幸を父に背負い込まされたとも思わないな。確かに離婚以来ウチはずっと貧乏だったけど、今考えれば、それほど愛情に飢えてるっていう状態じゃなかったような気もする。ただ、当時はやっぱりそれなりに寂しがったり、自分がひどく不幸だと思ったりはしてたと思う。それまでが必要以上にチヤホヤされてたから、放り出されてひどく不安だったんだろうな。それはそれでしょうがないことなんだろうけどね。

前にも書いたと思うけど、最近どうも父と会って話してみたいという欲求が強くなってる。と言いつつも、日々の忙しさにかまけて会いにいかないところが小心者なんだけどね。でもそろそろ会っておかないと、いい加減父も歳をとってきてるからね、じっくり話す前に死んじゃったりしたら、僕の中でブランクのままとっておいてある父親像というのがそのまま埋まらなくなっちゃうから、それはちょっと寂しいような気もするんだよね。

20年近くも前に親としての勤めを放棄しちゃうようなダメ親父だけど、僕はちゃんと僕を育ててくれた母の手腕を見せ付けるためにも、親父と会って、ほれほれ、親父はなくとも子供はこんなにバカでかく育つものだぞ、と、ちょっと威嚇して、その後にメシと酒を奢ってもらおうかと思ってるんだけど、イマイチキッカケがないなあ。

このページを読みにきたりすれば、話しが早いんだけど、それはありえないか。

うーむ。




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