思うこと
1998年6月6日(土)
Afro Blue / John Coltrane
僕は思う。モニタ越しに届く言葉の不完全さを。僕は嘆く。自らの指が弾くキーボードから流れ出す言葉の何と稚拙なことよ。心を伝えるためには、人間は一体どのように完璧な言語を持てば良いのだろうか。
吟遊詩人は風に乗り、体を開き、言葉を乾いた風に乗せて羽ばたいて行く。彼がばらまく言葉は僕の耳に届き、僕は肩を落としたまま、言葉というものの不完全さを改めて認識することぐらいしかできない。
あなたは辛いと言う。あなたの言葉は僕の心の中に入り込み、僕にとっての経験値から「辛い」というベクトルを探り出し、僕の脳は僕の体に「辛い」という信号を与え、あなたが発する「辛い」という言葉の持つ意味を認識したつもりになる。
だが、一体どのようにして、あなたの持つ「辛い」という心の動きと、僕が持つ「辛い」という事象を比較することができるだろうか。あなたの心が持つ様々な動きや波を、僕は一体どうやって捕らえていけば良いのだろうか。
そして僕は言葉を受信するときと同じように、言葉を発する時にもひどく憶病にならざるを得ない。僕が発する言葉はあなたにきちんと届いているだろうか、ふとそんな絶望的な望みを持ってしまい、その後で軽くて甘い後悔の念に駆られることもある。
「軽くて甘い後悔の念?」一体どんな思いだ。具現化できない。君にはできるか?ローレンス・ダレル風に「軽くて甘い後悔の念」を表現せよ。
ワン・ツー・スリー。
「死者にまみれるこの薄汚い部屋の中で、タークィンは黄色く濁った目をせわしなく動かしながら、クレアの浅黒い肌を見つめては、酸っぱい吐息を洩らし、昔は僕もこんなじゃなかった、と何度も甲高い声で呟いては、僕に向かって敵意むき出しの目を向けるのだ」
それともD.H. Lawrence風に、とどまるところを知らず溢れ続ける言葉を貪るように。
ワン・ツー・スリー。
「都会の女達はみな死にかけている。彼女達は本能を忘れ、すらりと伸びた脚や美しく生え揃った青白い爪にばかり気が行っていて、女達が本来神から与えられた本能に従うべき義務を放棄してしまっている。都会を闊歩する彼女達の脚からは筋肉が消えうせ、彼女達の乳房は眩く輝く白い液体を放つことはない。」
スイッチを切る。パチンという音を残してモニタは真っ黒になる。それで終わりだ。何も残らない。
こんなことを続けても何の意味もないことは分かっている。でも、時としてこういう絶望的な状況を目の前に突き付けられるということも大切なんだ。多分、きっと、恐らく。
夜が更ける。苛立ちが増す。濃厚なセックスが終わったばかりだと言うのにだ。オリーブを齧ると、脂っこい液体がじっとりと口の中に流れ出して僕は吐きそうになる。コルトレーンは引き攣った音色で僕に問いかけ続けている。「言葉でなんか何も伝えられるものか」と。
タバコを深く吸い込み、そのまま息を止めてみる。コルトレーンのサックスがせり上がるように僕の耳から入り込んできて、僕はモニタを殴り付けようと睨みつける。バーボンを流し込む。吐息が弾けてグラスが白く曇る。
ゴダールの映像が斜めに僕の視界を遮っていく。青い夜が僕にそっと囁き続ける。お前は違うお前は違うお前は違う、と。
深く夢に入り込むためには、僕は音と映像と文字を分離させ、キーを打つ指を砕かなくてはならないだろう。そして僕はもう一度、黄金色に輝く国境の橋に、触れることができるのだろう。
深く裂いた肉の裂け目に、ぬらぬらと濡れた眼球を突っ込むように、キーを打つ乾いた音とコルトレーンのサックスが絡み合い、僕は熱い泥に包まれるように、ゆっくりと沈んでいく。
僕に伝えられる、言葉があるのだろうか。思念が熱い塊となって部屋を彷徨う中。
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紡ぎ出される言葉の波は、恍惚の海を越え、あなたの指を震わせることがあるのだろうか。