真夏の夜の夢 思うこと Summer Edition
1998年8月31日(月)
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Paint it Black / The Rolling Stones
他の人はどうなのかは分からないけれど。
人間の五感の中で、僕は嗅覚が一番自分の記憶と密接に関係していると思う。懐かしい景色を見たり、昔流行った音楽を聴いたり、子供の頃に良く食べた駄菓子を食べたり、というのも僕の記憶の奥深くにしまい込まれた記憶を呼び起こす作用は十分に持っているとは思うんだけど、嗅覚、特に香水の匂いは、僕の中でしっかり引き出しにしまわれて紐でグルグル巻きにしてあるような古い傷を引っ張りだしてしまったりする。
今日の午後、僕は群馬県に日帰り出張に出かけ、帰りの電車に乗っていた。窓の外は突然降り始めたどしゃぶりの雨、車内は立つ人がいない程度の混雑。僕の隣には30代後半ぐらいのサラリーマン。なんてことはない、いつもの光景だ。僕は文庫本を開いてたいして集中もせずだらだらと読んでいた。
列車が駅に滑り込む。僕の隣に座っていたサラリーマンが立ち上がり降りていく。何人かの人達が新たに乗り込んでくる。そのうちの一人、黒の半袖のサマーニットにジーンズといういでたちの20代前半と思われる女性が僕の隣に座った。僕はちらりと女性の方に視線を送り、すぐにまた読書に戻った。でも、再び文庫本に目を落とした僕の脳裏にはすでについいましがたまで読んでいた本の内容とは全く別の、10年も前の東京のある街の景色が、何の前触れもなく、あまりにもリアルに浮かび上がっていた。
僕はひどく混乱した。何故突然こんな景色を思い出すのか、何故とっくの昔に忘れていたあの景色がこんなにリアルに浮かび上がってくるのかと。ほんの僅かの時間(恐らく1秒以下)を経て、僕は認識した。それは隣に座った女性の首筋から放たれる香水の匂いのせいだということを。
高崎線の車内で偶然僕の隣に座った若い女性が首筋につけていた香水は、僕が大学1年生の頃につきあっていた女の子がいつもつけていた香水とまったく同じ香りのものだった。間違いない。それがどんな匂いだったのかということを言葉にすることは不可能だけど、僕の脳のどこかにしっかりと記憶されていた彼女のあの匂いと全く同じ匂いが、僕の隣に座った、非常に、完全に、疑いの余地もない他人から漂ってきたという事実が、僕をひどく混乱させた。
すごくいい匂いでしょう、彼女はいつもそう言いながら首筋や手首に香水をつけていた。暑い日も、寒い日も、元気な時も、落ち込んでいる時も、いつも彼女はその香りと共にあった。誤解のないように書いておくが、彼女は特に濃密に香水を体中にふりかけていた訳ではない。振り向いた時やふと体が近づいた時にほのかに香る程度のものだ。でも僕と彼女は恋人同士だったのだから、彼女の首筋や手首から立ち昇る彼女の香りを胸一杯に吸い込むことは日常茶飯事だったわけで、それはつまりその香水はすでに香水という独立した存在意義を失い、僕の中ではあの匂いは彼女の匂いと同義のものとなっていた。
僕と彼女は熱くて激しい一年間を共に過ごし、そしてあっけないぐらい唐突に僕達の関係は終わった。それはもう10年も前のこと。彼女のことを最後に思い出したのは一体いつのことなのだろうか。それも思い出せないぐらい、ずっとずっと、昔に全て終わったこと。
僕は彼女を失ってとても傷ついた。世の中に人の心の傷の深さを計る定規はないからどの程度深く傷ついたのかを表現することはできないけれども、僕なりにずいぶん傷ついた。でも幾らかの時間を経て(当時は永遠に続くかと思われるぐらい長かったけど)、僕は立ち直り、いつの間にか彼女の匂いのこともすっかり忘れていた。この世の中に彼女と同じ匂いを持つ女性が存在しているなんて、夢にも思わなかった。だって、僕にとってはあの匂いは香水の匂いではなくて、彼女の匂いだったのだから。
僕は文庫本を無意味に開いたまま、隣に座って脚を組み、雑誌に視線を落とし続ける女性の顔を見たいという猛烈な衝動に駆られていた。どんな顔をしているのだろうかという興味ではなく、美人なのかそうではないのかということを確認したい訳でもなく、とにかく顔を確認しなければならないという、いてもたってもいられないぐらいの衝動に駆られてしまったのだ。彼女と同じ匂いを持つ女性が、彼女以外の存在であるということを認識しきれずに、僕は途方に暮れていたのかも知れない。
じりじりとした焦燥感の中で、列車は(多分)時刻表通りに高崎線を登っていき、僕はいつの間にか精神力を使い果たしてヘトヘトになってしまっていた。隣に座った女性はその間も一心不乱といっても過言ではないぐらいの集中力で雑誌を読み耽っていた。僕はどうやって隣の女性があの子ではないということを確認できるだろうかとか、もし隣に座っているのがあの子だったら僕は一体どうすれば良いのだろうかとか、そんなことばかり考えていた。列車は尾久駅を出て、終点の上野のプラットフォームに滑り込んでいく。
列車が完全に止まる少し前に僕は席を立った。立ち上がるとき、隣の女性から漂ってくる香水の匂いはそれまでよりもずっと強く匂ったように思えた。僕は鼓動が速くなることを自覚した。不本意ながら、ここ何年もないぐらいどきどきして、掌は汗でぐっしょりと湿るほどだった。
僕はドアの前まで歩き、心を決めて後ろを振り返った。僕が座っていた座席にはすでに僕の姿はなく、さっきまで僕の隣にいた見知らぬ女性はまだそこにいて、雑誌をバッグにしまいこみ視線を上げた。その女性の顔は、美人でも不美人でもなく、僕が29年間生きてきた中で一度も知りあったことのない、全くの、完全な他人の顔をした、ごく普通の若くて清潔そうな女性だった。彼女は僕と視線が会うと、怪訝そうに視線をそらし、早足で列車を降りていった。
上野駅の雑踏の中で僕は一人脱力し、意味もなく隣を歩く疲れたサラリーマンに話しかけたいという衝動に駆られ続けた。「ねえ、僕、今しがたまで、10年前に振られた女の子の妄想に捕われてドキドキしてたんですよ」、って。
僕の中に残る傷は癒えたのではなく、単に記憶の引き出しの奥の方にしまわれていただけなのだということを認識すると、僕は乗り換えの山手線のプラットフォームの上で、大声で笑いたくなった。
あるいは僕は安心したのかも知れない。10年経っても、堅苦しいスーツに身を包むようになっても、僕はあの頃と変わらない、優柔不断で軟弱な、ちっぽけな人間に変わりはないということを、あの匂いのおかげで再認識できたことに。
そう、もう10年も前に終わったことだ。