アキラは右手にヘアブラシを持ち、鏡に向かい突っ立ったまま、小さく舌打ちをした。やっぱりいつものルシードのスーパーハードムースにするべきだったんだ。いつもなら必ず買い置きを用意しておくのだが、今回はうっかりしていて最後まで使い切ってから初めて予備がないことに気付いた。
ボサボサの頭のまま近所のサンクスまでムースを買いに出た。髪型が決まっていないだけで、ひどく無防備な気分になる。アキラは何度か部屋にあるキャップを被って鏡の前に立ってみたが、どれにも納得ができず、結局何もかぶらずに家を出た。
部屋の外はひどくぼんやりとした曇り空で、昨日までの5月の爽やかな風も太陽の光も消えうせ、絡み付くような湿気と生暖かい風が無防備なアキラの髪を痛め付けた。歩道を自転車で通り過ぎる小学生ぐらいの子供がすれ違い様に髪型を笑っていったような気がした。
サンクスの店内には、平日の夕方だというのに客が一人もいなかった。古くさい洋楽が必要以上に大きな音で鳴り響いていて、アルバイトの学生が退屈そうにリノリウム張りの床をモップでこすっていた。
アキラは伏し目がちに店内を進み、シェービングクリームやヘアムースなどが並ぶ棚の前に立った。この前まで種類別にずらっと並んでいたルシードの無香料のムースやヘアスプレーがなくなっていて、その代わりに見慣れない銘柄のムースが並んでいた。新製品だということで、俳優の顔をあしらったPR用のシールが棚に貼り付けてあった。
いつもだったらアキラは迷うことなくそのまま店を出て、歩いて10分ほどのところにあるファミリーマートへと向かっただろう。だが、アキラが店を出ようとすると、ウィンドウ越しに鉛色の空から細かい雨が落ち始めた。雨の勢いはみるみる激しくなり、このまま10分傘をささずに歩いたら確実に全身ずぶ濡れになってしまい、アヤコとの待ち合わせにも間に合わなくなってしまうだろう。サンクスにはビニール傘を売っているが、アキラはどうしてもビニール傘をさす気にはなれなかった。アキラの美的感覚からすると、ビニール傘をさすぐらいなら、濡れて歩いたほうがマシだ、ということになる。
アヤコとの待ち合わせには遅れたくなかった。アヤコはものすごい美人というわけではないが、今までアキラがつきあったどの女にもない柔らかい雰囲気を持っていて、アキラはその雰囲気が気に入っていた。二人で会うのはまだ三回目だ。約束の時間には遅れたくない。
アキラは一瞬躊躇したが、結局GATSBYの新製品のスーパーハードムースを買った。アルバイトの店員からビニール袋をひったくるように受け取ると、激しさを増す雨の中をアキラは自宅まで走った。全力疾走をすれば、サンクスから自宅のアパートまでは30秒もかからない。
部屋に戻るとしばらく呼吸を整え、それから鏡に向かった。雨は強かったが何とかシャワーを浴びないでもすむ。アキラは買ってきたばかりのGATSBYのムースをブラシにとり、水で濡らした髪にたっぷりと着けた。
一瞬アキラは動き止めた。ムースが放つ匂いが鼻を突いたからだ。慌ててムースのボトルを手に取ると、「爽やかな微香性」と書かれている。アキラは小さく溜息をついた。溜息の中に微かに苛立ちの匂いが混じるのを自分でも感じていた。慌てていたので無香性かどうかを確認しなかったのだ。アキラは化粧品会社がムースやシェービングクリームに入れている香料の匂いが我慢できない。あんな安っぽい匂いを体からまき散らして歩くのかと思うとゾッとするのだ。
アキラはしばらく呆然と鏡を眺めていたが、やがて我に返った。もう待ち合わせの時刻が迫っている。あと10分で準備を終えて家を出ないとアヤコを待たせることになる。携帯の番号はお互い教えあっているが、アキラはどうしても遅刻したくなかった。簡単に約束を変更するような男だと思われたくなかった。
硬くて量の多いアキラの髪は癖が強く、スーパーハードのムースでもなかなか思い通りにセットできない。アキラはブラシとドライヤーを駆使して、何とか納得のいく髪型に整えていく。出来上がった髪型は、80点というところだろう。ムースがルシードのスーパーハードではないということと、湿気の多い外の天気のせいで、100点にはならない。アキラはちょっと不満だったが、あきらめて仕上げに入ることにした。
Calvin Kleinのobsession for menのボトルを手に取り、ほんの少量を手首と首筋につける。このコロンの香りがごく淡く全身を包み、黒のアニエス姿のアキラを完全な形に仕上げてくれるはずだった。だが、フレグランスを首筋と手首に塗ったアキラは顔をしかめた。GATSBYのムースが放つ安っぽい匂いとCalvin Kleinのコロンの濃厚な香りが交じり合い、吐き気を催すようなひどい匂いがアキラを包み込んでいたからだ。
アキラの全身はヒステリックな苛立ちに包まれた。アキラは衝動的に携帯を手に取り、アヤコの携帯の番号を呼び出した。今日の約束は断ろう。ひどい風邪を引いて外に出られないことにしよう。こんな匂いをまき散らして不格好な頭で外に出るぐらいなら、家で一人で寝ていたほうがどんなにか気が楽だ。
アヤコの携帯は電源が入っていなかった。いや、アヤコは待ち合わせの渋谷まで、家から地下鉄3本乗り継いでやってくる、だから電源が入っていないのではなくてすでに家を出て、今地下鉄の中にいるのだ。だとしたら、アヤコを待ち合わせ場所で放り出すことになってしまう。
アキラはちらりと時計を見た。もう今からシャワーを浴び直す時間はない。頭の芯がじわじわと熱くなるのを感じた。せっかくのデートだというのにどうしてこんなことにならなければいけないのかと思うと目の前の景色が白く濁り、わけの分からない電流のようなものが体を駆け巡り、アキラは奇声を発してムースのボトルを力いっぱい鏡に叩き付けた。
--「ゴメンね、遅くなっちゃった」 アヤコがそう言って両手で拝むような仕草をして現れた時、アキラは自分の笑顔が苛立ちで歪まないよう、必死で自分をコントロールしていた。
砕け散った鏡の破片の一つが右手の親指の付け根に突き刺さり、そのままの状態でアキラは2、3分突っ立っていた。真っ白になっていた視界がゆっくりと色を取り戻し始めるのと同時に、親指に鈍痛を感じ、無意識のうちにガラスの破片を傷口から抜いた。大して血は出なかったので、バンドエイドで傷口を塞いでそのまま家を飛び出した。
待ち合わせ場所に向かう電車の中でも、電車を降りてからも、アキラはずっと自分の匂いを気にしていた。自分の周囲に立っている人間、自分とすれ違う人間がちょっとでもおかしな行動をとれば、それは自分の匂いが原因なのではないかと疑った。傷口は時々鼓動に合わせるようにうずいたが、血は止まったようだった。
待ち合わせ場所に着いた時、アヤコはまだ来ていなかった。109の大きなショーウィンドウに自分の姿が映っていることにアキラは気付き、自分の髪型を何度も角度を変えて映してみた。いつものルシードのスーパーハードムースがなかったせいで、やはり今日の髪型は80点ぐらいだった。アキラは自分の髪型を見ては溜息をつき、ムースとコロンの雑じった匂いが風に乗って自分の鼻に届くたびに苛立ちを感じた。
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待ち合わせ場所に現れたアヤコはアキラの髪型については特に何も言わなかった。顔をしかめて匂いを気にすることもなかった。アキラはアヤコの仕草を念入りにうかがっていたが、特に不自然なところはないように思った。
アヤコはいつも通りの柔和な笑顔を浮かべ、これから見に行く映画をどれだけ楽しみにしているかを、役者の名前や監督の名前を上げて話した。
渋谷の街は雨に濡れていた。アキラが傘を開くと、アヤコは自分の傘をさそうとせず、アキラの黒い傘の中に細い体を滑り込ませてきた。アキラはひどく狼狽した。このまま並んで歩けば、アヤコにこの匂いのことを気付かれてしまう。掌にじっとりと嫌な汗が浮かんできた。傘をさしていない左手を慌ててポケットに突っ込んだ。
二人は並んでシネマライズへと向かって歩いた。アヤコは時折アキラの左の腕を抱くように体を寄せてきたが、アキラはじっと真っ直ぐ正面を見て歩いた。緊張と苛立ちで視界が霞みそうになるのを、何とかこらえて歩いた。
センター街の細い路地に入ってすぐ、雨に濡れてぼろ布のような浮浪者がうずくまり、下半身を露出させて放尿していた。アヤコはすぐに浮浪者の姿に気付いてよけようとしたが、アキラは正面を見据えてまっすぐ歩いていたために、アヤコは危うく浮浪者が垂れ流している小便を靴で踏みそうになった。アヤコは一瞬よろけ、アキラの腕を強く掴んだ。アキラの緊張は限界に近づいた。そんなに体を密着させたら、俺のこの嫌な匂いに気付かれてしまう。
「やだ、臭い」
アヤコは浮浪者の姿を振り返りながら呟いた。その瞬間に、アキラは自分の視界に赤い亀裂が入ったことを覚えている。猛烈な勢いで体中を熱が支配し、真っ赤になった視界が白く霞んでいく。もうだめだ、アキラは最後にそう呟いたような気がした。
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真っ白だった視界が少しずつ色を取り戻し始めると、景色はゆっくりと赤く染まっていった。アキラは雨に濡れ、幾重にも重なる、怯えと好奇を目にたたえた野次馬に囲まれて立ち尽くしていた。
アキラの足元には、グシャグシャに折れ曲がった彼の黒い傘と、原形を留めないほどに顔を腫らし、口と耳からどす黒い血を流し吐瀉物と失禁にまみれ倒れるアヤコの姿があった。
アキラは震える両手で無意識に顔を拭った。手は他人のもののように冷たく、ぬるりとした感触があった。角のブティックのショーウィンドウには雨に濡れた自分の姿がぼんやりと映っている。
鉛色の空を見上げると、細かい雨粒が無数に降り注いでくる。アキラは血に塗れた両手で髪型を整える仕草をし、周囲を取り囲む野次馬のうちの一人、銀縁の眼鏡にくたびれたトレンチコート姿の中年の男に向かって小さく微笑み、呟いた。
「ムースはルシードのスーパーハードじゃなきゃダメだよ」と。
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