秋の夜長に 思うこと   自閉編


1999年9月29日(水) くもり 時々 雨 +548

昼休みに入った天王洲アイルの蕎麦屋では、生のワサビがゴロンとおろし金と一緒に出てきて、すごく驚いた。蕎麦、美味しかった。

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今朝から、石原慎太郎の「聖餐」なる小説を読み始めた。短編集で、その最初に入っていたのがタイトルにもなっている「聖餐」という作品なのだが、帰りのバスの中で思わずハードカバーを叩き付けて足で踏みつけてやろうか、というぐらいに嫌な小説だった。こんなに嫌な小説を読んだのは、阿部和重の「インディビジュアル・プロジェクション」以来じゃないだろうか。

何がそんなに頭に来たか。簡単に言ってしまえば、石原慎太郎、気違いをバカにするな、ということだ。

ストーリーは、新鋭映画監督がそれだけでは食えず、ポルノだのエロ本だのに足を染め、そのうちだんだん危ない世界に足を踏み入れ、ちょっとした誤解もあって警察に逮捕され、殴られたり蹴られたりして、非常に悔しい思いをする。で、自分のプライドを守るために、そして警察をあっと言わせるために、その映画監督は、「本当に凄い映画」を撮ろうと仲間と決意し、過去に暴行殺人歴のある、四重人格の男を見つけだし、カメラの前で女を殺させ、それをフィルムに収めるとその四重人格の男を殴り殺し、自分自身を納得させる、というような感じ。

あああ、今こうして書いていてもひどいストーリーだ。とにかく何もかもがひどすぎて書き続けるのも大変なぐらいなんだけど、一番腹が立つのが、カメラの前で女を犯し、その女の喉をナイフで切り、腹を切り開いて内臓を引っ張りだし、という行動をとる男の描写。

「四重人格」の男、ということで話の半ば過ぎから突然登場してくるのだが、この男について主人公の映画監督とその助手的な男が語るには、「やっぱり正真正銘の気違いなんだな」といった、まことに陳腐な表現ばかりだし、その男が女をナイフで切り刻むという行為と、その男の多重人格性との関係性なんかはまったく吹っ飛ばされてしまっていて、ただ単に「気違い」の見本として、多重人格を取り扱っているとしか思えない。

それに、その主人公の映画監督が、何故多重人格者が殺人を犯す現場をフィルムに収めることが「本当に凄い映画」だと思ったのか、という部分も、単に「おい、あれをやるしかねえよな」、「そうか、あれだよな、やっぱり」的なセリフのみで構成されていて、まったく説得力がない。だいたいその映画監督が多重人格の男に、「こうこうこういう映画に出てくれよ」と誘って、「本当にやっていいのか」という返事が返ってくるということは、それはすでに多重人格でも何でもないじゃないか。

心に病を持つ人間にスポットをあて、その心を描くという行為自体を咎める気は僕には毛頭ないけれども、心を病んでいる人間を「気違い」と一まとめにして、女を切り刻んで勃起していると思ってるんだとしたら、石原さん、あんたはさっさと筆を折って、都知事でも疣痔でもなんにでもなるがいいと思う。

「太陽の季節」は結構好きだったので買ってみたが、とんでもない小説を買ってしまった。ベランダで灯油をかけて燃やしてやろうかと、本気で思うぐらい、嫌な小説だ。

石原さん、夢野久作の「ドグラ・マグラ」を100回くらい読み返して、ちょっと勉強した方がいいんじゃないのか。

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今日の重:94.4キロ(今月の目標:91.0キロ)←(ダイエット決意時の体重は96.4キロ)


 

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