がっしりと重い鉄の二重扉を開くと、青白い蛍光灯に照らし出されるスタジオの中からは何とも懐かしい黴とタバコの混じり合ったような匂いが流れ出してきた。僕はその狭いレンタル・スタジオの部屋に入った。僕に続いてポールや他のメンバー達もぞろぞろと中に入ってきた。全員が狭苦しいスタジオの中に入ってしまうと、僕は重たい鉄のドアを閉じ、二段階になっているノブをがっちりとロックした。久し振りのスタジオという漠然とした響きが、ドアをロックした瞬間に一気に現実味を帯び、僕の胸は高鳴った。心地よい緊張感だった。

僕達は殆ど喋らず、黙々とセッティングをした。僕はスタジオに備え付けのヴォーカルアンプに電源を入れ、ボリュームやバランスの設定をした。ポールはエフェクター類とアンプをギターに繋ぎ、アンプは通さずにチューニングを始めていた。ベーシストとドラマーは僕の知らない人だ。ポールが知り合いのつてで探してきた新しいメンバーだ。やけに体が細くて背の高い、何となく汚らしい長髪を肩よりも長く垂らしているベーシストは僕達に背を向け、ベースアンプの方を向いて何やら調整をしていた。時折アンプを通したエレキベースの固い音がスタジオの中に大きく響いた。腹の底を打つようなベースの音を聞くと、僕の緊張感はさらに高まった。

きつめのパーマをかけた、プリンスにちょっと顔の似たドラマーは、黒のタンクトップの上によれよれのシャツを羽織り、ぼろぼろのジーンズを履いていた。彼は革のスティックケースをベータムに括りつけ、慣れた手付きでチューニングを進めていた。隣のスタジオでは訳の分からないヘビメタバンドの演奏が微かに聞こえてきていた。隣の部屋のベースの音だけが、建物全体を共振させているかのように、くぐもった振動を伴うような感じで僕達の部屋にも大きく轟いていた。

僕はマイクスタンドのセッティングが終わると、一度部屋から出て自動販売機で冷たいウーロン茶を買った。別に喉が渇いている訳ではないのだが、何故か僕は歌うときには飲み物がないと不安になるのだ。

僕が部屋に戻ると大体全員のチューニングが終わろうとしていた。ポールがアンプの電源を入れ、ワウ・ペダルとオーバードライブを踏み込んだ。空気の振動をエフェクターが捕らえ、アンプが拡大しているかのように、スチームストーブから流れ出す蒸気のようなシューっという音がスピーカーから流れ出した。僕はその音を聴くと鳥肌が立った。前回のライブが終り、バンドを解散してからまだ3カ月しかたっていないのに、自分はこの音を強く求めていたことに気付いた。僕はこの場所に長谷部という僕の同級生のベーシストがいないことをひどく残念に思った。僕と長谷部はずっと一緒にバンドをやっていて、僕は常に彼の素晴らしい演奏を聞きながら唄ってきたのだ。しかし彼は大学受験に失敗して予備校に通っており、合格するまではベースは弾かないと宣言していたのだ。

ポールがアルペジオの練習を始めたのをきっかけにして、ベーシストとドラマーも各自個人練習を始めた。バラバラの音の重なりを僕はぼんやりと聴きながら部屋の真中につったっていた。一通り個人練習の時間が続いた後、ギターアンプの上に腰掛けていたポールが立ち上がり、さて、そろそろやるか、と言った。僕はウーロン茶の缶を開けて、一口飲んだ。ごくりという音が頭の中に響いた。



みこさんと飲んだ翌日に僕は約束通りたっちゃんの店に顔を出した。午後の中途半端な時間だったので、客は二組しかいなかった。僕はカウンターに座り、たっちゃんにコーヒーを注文した。たっちゃんは僕が店に顔を出したことを大袈裟なぐらい喜んでくれて、今日のコーヒーは俺のおごりだ、と言ってくれた。ポールは相変わらず無口で、カウンターの中でサンドウィッチの仕込みの手を休めて、ニコニコしていた。みこさんは僕と目が合うとにっこりと微笑んだが、特に前の日のことは口にしなかった。僕も何となくそのことを口に出すのが面倒だったので、微笑みを返すだけにしておいた。

コーヒーを飲みながらぼんやりとBGMのポリスの曲を聴いていると、たっちゃんが僕の前に薄いブルーの封筒を投げてよこした。横型の封筒の右下には、たっちゃんがいつも読んでいるギター雑誌の名前が印刷されていた。僕がたっちゃんの顔を見ると、たっちゃんはにやにやと笑いながら、開けてみろよ、と言った。僕は訳がわからないまま、既に封の切られてある封筒の中からペラペラの書類をひっぱり出した。

A4のコピー用紙が中から出てきた。

『ギタージャーナル主催 第4回マラソンライブ 参加通知書』参加申込代表者名:立花、バンド名:未定、ジャンル:ハードロック、メンバー構成:未定。

僕は書類を何度か読み返して、顔を上げてたっちゃんを見た。たっちゃんは涼しい顔をして笑っていた。
「ねえ、なに、これ?」
「見ての通り。ライブへの参加通知書。先週俺が送っておいた申込書が受理されたんだよ」
「どうして、そんなこと」僕が真面目に質問すると、たっちゃんも少し真面目な顔をして言った。
「いや、どうも最近立花が元気ないんでさ、ちょっと気合入れてやろうかと思って申し込んでみたんだよ。会場はすごく小さなライブハウスだしさ、出てくるバンドの数も大したことないみたいだからさ、丁度いいよ、新しいメンバーでやるんだからさ」
「そんなこと言ったって、まだメンバーなんて一人も決まってないんだよ」僕はちょっとむっとして言った。僕の都合なんて全然考慮に入っていないのだ。でも良く考えると、僕にいったいどんな都合があるのだろうと思い、そう考えると腹を立てるのもばかばかしいので止めた。
「ポールはこのことを知ってたの?」僕はポールの方を見て言った。ポールはホットドッグ用のソーセージの仕込みをしていた手を止めて、エプロンで手を拭うと僕の方を見て言った。
「いや、今初めて知ったけど、でも別にいいんじゃない。俺もそろそろ何かやりたいなーなんて思ってたところだからさ。あんまり間があくと何だかぎくしゃくしちゃうからさ、いいよ。で、そのライブっていつあるの?」
「5月31日の日曜日」たっちゃんは何でもないというように言った。
「あと一カ月半しかないじゃない」みこさんが腕組みをしたまま話に入ってきた。僕は書類を見つめたまま黙っていたが、黙っていてもどうにもならないので、話を進めることにした。
「メンバーはどうしよう」僕は言った。
「とりあえずはベースとドラムだな。いいよ、俺の知り合いの連中の中からまともな奴等を探してみるよ」ポールの目が輝いている。やっぱりライブをやりたいのだ。僕も話をしているうちに徐々にライブハウスの匂いやスポットを浴びる気分を思い出し始め、何だか気が楽になってきた。
「キーボードはどうしよう」僕はカップの底に残っていた冷たいコーヒーを飲み干し、ポールの方を見て言った。
「キーボードは別にいなければいないで何とかなるよ。まあ腕のいい奴がいたら入れるってぐらいのノリでいいんじゃないの?」ポールは微笑みながら言った。まあ、僕達がやっていた音というのは70年代のロックだったので、確かにキーボードはいなくても何とかはなるのだ。僕は黙って頷いた。
「今回のライブの件はさ、俺がマネージャーやってやるから、お前らは安心して練習に専念してくれりゃいいからさ」たっちゃんが満面の笑顔で言った。本当はたっちゃんもライブに参加したいのだ。たっちゃんは大の音楽好きだが、自分では楽器ができなかった。ルックスも髪形もまるでヘビメタのギタリストのようだったが、今まで直接音楽というものに係わったのは高校までの音楽の授業と、カラオケぐらいのもののはずだ。僕達のライブなんて、完全なアマチュアバンドが無名のライブハウスに集まって細々とやるマラソンライブなのだから、実際にはマネージャーなんてものは必要ないのだが、せっかくたっちゃんがセッティングしてくれたのだから、有難くお願いすることにした。

とりあえず2、3日中にポールがメンバーを探してくることを確認して、僕は店を出た。家に帰ると僕は3カ月前のライブのビデオを何度も繰り返して観た。ブラウン管の中では僕が狭いライブハウスのステージの上で窮屈そうに動き回り、ポールが淡々と繊細なフレーズをゴージャスに弾き続け、長谷部のどっしりとして、それでいてリズミカルなベースが僕達のステージ全体を支えていた。長谷部の友達のドラムとキーボードの腕も抜群で、僕だけが未熟ながなり声を立てて必死になってみんなに追いすがろうとしていた。僕はみっともない自分の歌声を聞いても、それでも気分が良かった。またあの緊張感と解放感に包まれ、エネルギーを一気に発散できる場を得ることができるのだ。僕は久し振りに体が軽く、鉛のような重さや訳の分からない熱から解放されたような気がしていた。

3日後にポールから電話が掛かってきて、ベーシストとドラマーが見つかったよ、と言った。二人とも昔ポールと一緒にバンドを組んでいた人の友達で、プロ指向で活動しているということ、音楽のジャンルが僕達のやっている音に近いということ、今は特に決まったバンドで定期的な活動は行っていないということを確認した。ポールが顔合わせを兼ねて一度スタジオに入ろうと提案するので、僕も賛成した。べらべらと喋るよりも、一度一緒に音を出してみたほうが簡単だし確実だろうということだった。僕が土曜日に、都立大学駅の近くのレンタルスタジオを2時間予約して、メンバーはそこで顔合わせを兼ねて4曲ほどを練習していくことになった。その4曲は、いずれも僕とポールが3カ月前のライブで演奏した曲だった。



「じゃあ、Day Tripperからやろうか」ポールが言い、僕と他の二人が頷いた。「Day Tripper」はもともとはビートルズの曲だが、僕達が演奏したのはホワイトスネイクがカバーした、ブルースにアレンジされたものだ。
ドラムスティックの乾いたカウントと共に、スタジオの中に静かな緊張感が走る。初めて顔を合わせた人間同士でこの曲をいきなり合わせるのはかなり難しいと思ったが、ポールなりの考えがあるのだろう。
重厚感のあるドラムのリズムで曲が始まる。ギターとベースのユニゾンのリフがドラムに絡み、前奏が始まる。僕はポールの細くて白い指の動きを追っていた。ポールはピックを使わない。彼のレスポールモデルのギターに白い指が絡み付いているように見える。
前奏が始まってすぐに僕とポールの目が合った。ベースとドラムのリズムがしっくり合っていないのだ。走り気味のベースに対して、ドラムがもたっている。ドラムとベースがお互いに譲り合うような感じになっていて、ピシッと一つになっていない。ポールは何事もないかのように前奏を弾き続け、僕の歌が入った。
僕の歌が始まると、ドラムとベースのリズムの崩れはさらに顕著になり、リズムが変わる展開部ではバラバラに分解してしまった。僕は思わず唄うのを止め、演奏を止めた。
「ねえ、ちょっとリズムがキープできてないんじゃないかな」僕は言った。ドラマーは僕の方をじっと見つめていたが、やがて舌打ちをして、聞こえるか聞こえないかという小さな声で、偉そうに、と呟いた。スタジオの中の緊張感が一気に高まった。僕は何かを言い返そうと思ったが、自分の言い方にも問題があったかも知れないと言う思いもあり、そのまま黙っていた。ポールはアンプの上に腰掛けてドラマーのことを見つめていたが、ドラマーが舌打ちをしたのを見て、ドラマーを窘めるように、ちょっと別の曲もやってみようか、と言った。
「じゃあ、Rock n' Rollね」レッド・ツェッペリンの名曲だ。
ドラマーはしばらくじっとポールの方を見つめていた。ドラムがカウントを始めなければ演奏が始まらない。ポールはしばらくドラマーと睨み合っていたが、やがて顎をしゃくるような仕草をして、はやく始めろ、と急かした。
ようやくドラムのカウントが入り、それに続いて一斉に前奏が始まった。アップテンポの8ビートなのだが、やはりリズムが安定しない。僕は目を閉じて音を聴いたが、ベースは静かに安定したリズムを刻んでいるのだが、ドラムがフラフラしていてリズムが安定しないために、演奏を一体化することができないのだ。目を閉じた僕の目の前に本来は独立した音と音が繊細に絡み合い、形をなして一つのオブジェを形成するはずなのだが、暗闇の中でそれぞれの音はバラバラに現れては他の音とうまく絡み合うことができず、ぺちゃんと潰れてしまい、いつまでたっても立体的なオブジェになりそうになかった。
ポールは目を閉じてリフを弾き続けている。オーバードライブを効かせた重厚感のある音だが、ただ高圧的に強い音ではなく、ポールの細くて白い指先のように繊細で精確な音だ。ベースの音色はやや太さに欠けるような感じがするのが難点だが、音色の粒は揃っている。背の高い痩せたベーシストは身動き一つせず、まるでリズムマシーンが、プログラミングされた音色を無機的に演奏しているかのように、感情のない、機械的な音色を刻み続けていた。長谷部のベースのようなキレがないのだが、それは単に僕の主観的な感覚なのかも知れないとも思えた。ドラムのリズムは相変わらずひどく不安定で、バスドラムのリズムキープもままならない状態だった。
僕は前奏を聴いていて具合が悪くなりそうになっていたのだが、とりあえず、えいや、と言う感じでポールのギターを頼りに唄い始めた。僕はベースとギターの不協リズムに振り回されないように、ポールのギターに寄り掛かるように唄い続けた。ポールはギターアンプの上に座り、うつむいてじっと自分の指を見つめながら演奏を続けていたが、時折大きく首を振り、何とか自分でリズムをキープしようとしているようだった。バラバラの演奏の上に安心感のないヴォーカルが乗っかっているのだから、まともな演奏になる訳がなく、自分で唄っていながら気分が悪くなるようなひどい演奏だった。
何とか僕がワン・コーラス目を唄い終え、ギターソロが始まった。ポールはヴォリュームを上げ、勢い良くソロを弾き始めたが、相変わらず演奏はバラバラで、ポールが必死にソロを弾けば弾くほど、演奏は致命的な方向に進んで行くような感じだった。ドラマーは相変わらずデタラメなリズムを刻んでいたし、さらにドラムの音もずるずると糸を引くようなひどいものだった。恐らくチューニングがきちんとできていないせいだろう、音にちっとも張りがなく、ただでさえリズム感が悪いドラムの音を絶望的なものにしていた。ポールは立ち上がり、うつむいたまま首を小刻みに振り、金属的なソロを弾き続けていたが、やがて長髪を振り乱すように大きく首を振ると指でギターの弦を掻き毟った。ぐしゃぐしゃという不快な音がギターアンプから流れ、ポールは演奏を止めてしまった。アンプがハウリングを起こし、きーん、という不快な音を細く長く残し、ドラムとベースも演奏をやめた。ポールのギターの弦が一本切れて、だらりと垂れ下がっていた。

誰も口を開かなかった。ギターアンプからは静かにエフェクターが増幅した空気の流れが静かにスチームを吐き出すような音を流し続けており、壁越しに隣のスタジオのバンドが演奏するビートルズの「Rain」の音が聞こえていた。恐らく隣ではバンドが入れ替わったのだろう。ヘビメタバンドは普通ビートルズの「Rain」など演奏したりしない。
ポールはうつむいたままギターの弦を指で撫でており、ベーシストは直立の姿勢のまま、何かをぶつぶつと口の中で呟き続けていた。ドラマーはじっとポールの方を睨みつけていた。嫌な沈黙だった。緊張感が限界まで張り詰めているのに、誰も口を開こうとしない。全員が原因を知っているのに、突破口が何もなかった。僕はマイクコードが絡まっている部分を靴で蹴飛ばして直そうとしていた。
やがてじっとりと貼り付いた緊張感に耐えられない、と言った雰囲気でドラマーがポケットからタバコを取り出して火をつけた。タバコの煙が細く立ち昇り、エアコンの空気の流れに巻き込まれるように小さく渦を巻いて青白く消えて行った。
「スタジオの中は禁煙だよ」ポールがうつむき、ギターの弦を指で撫でながら掃き捨てるように言った。ポールの発した声はごく小さなものだったが、まるで耳元でシンバルを鳴らしたように大きく部屋の中に響いた。ドラマーはドラムセットの真中に座ったまま、タバコを口にくわえてじっとポールを睨んでいた。彼はポールの声と同時に黒のタンクトップから突き出した筋肉が隆々とついた肩をピクリと動かしたが、その後は再び身じろぎ一つしなかった。タバコの先端に白い灰が垂れ下がっていた。
「火を消せって言ってんだよ」ポールは今度はスタジオ中に響くような大きな鋭い声で言った。相変わらずポールはうつむいたままだったので彼の表情をみることはできなかったが、彼の顔色は青ざめていた。ドラマーはタバコをくわえたまま、スティックをスティックケースにしまい、手に持つとしわしわの白いシャツをはおると立ち上がった。ドラマーはまっすぐに歩いてポールが座っているすぐ脇を擦り抜けたが、その時にポールの足下に吸っていたタバコを投げ捨て、つま先の尖ったブーツで踏み消した。
「やってられねぇんだよ、ったく」ドラマーは緊張で上ずった声でどなると、そのまま振り返らずに鉄の扉を開いて出ていった。僕は呆然と彼が出ていくのを見送った。僕はポールがドラマーを追い掛けて殴ったりするのではないかとハラハラしたが、ポールは相変わらずうつむいたまま、指でギターの弦を撫で続けていた。ベーシストはベースをアンプの横に立て掛け、アンプのスイッチを切り、ケーブルとエフェクターを黙って片付けていた。彼はやがてソフトケースの中に丁寧に彼の赤いエレキベースをしまうと、ポールに向かって言った。
「悪いけど、俺は降ろさせてもらうよ。このバンドはちょっと疲れそうだ」
ポールはうつむいたまま大きく頷いた。ベーシストは僕の方をちらっと見て、口元を微かに歪めて微笑み、大股で出ていった。スタジオが急に広くなったような感じがした。ポールはうつむいたままじっとしていたが、やがて顔を上げて、今日は帰ろうや、と弱々しく言った。ポールの顔は微笑んでいたが、表情がなく、平板な顔だった。恐らくポールが見ている僕の顔も同じようなものなのだろうと思った。時計を見るとまだスタジオに入ってから30分しか経っていなかった。

僕達は二人で二時間分のスタジオ料金を払い、外へ出た。外は丁度夕暮時で、クラブ活動帰りの中学生がぞろぞろとすれ違って行った。彼らは意味もなく走ったり騒いだりして、全身から溢れるエネルギーを必死に発散していた。僕達は中学生達の姿を眺めながら駅前までぶらぶら歩いた。駅前に小さな居酒屋があるので、僕はポールを誘ってみたが、ポールは、今日は疲れたから、と断った。
「まあ、もう一度やり直しだな」ポールは寂しそうに言うと、ギターケースとエフェクターケースを抱え僕と反対側の電車に乗り込んで行った。

僕は駅の売店で缶ビールを買って、ホームのベンチに腰掛けて二息で飲んだ。ビールの味は殆どわからなかったが、喉越しが心地よかった。僕はビールを飲み終えると売店の横の公衆電話から彩子に電話をしてみた。2回のコールで相手が出た。彩子かと思ったが妹だった。ちょっとお待ち下さい、と言って妹は受話器から離れた。僕の後ろを急行列車が猛スピードで通過していった。轟音の中で彩子が電話に出た。

「何よ、どこから電話してるの?」彩子は大声で言った。
「駅のホームの公衆電話。ねえ、今暇かな」
「うん、今夜はバイトもないし、暇だよ。一杯飲もうか」
「うん、そう思って電話したんだ。そっちに僕が行こうか?」
彩子はしばらく黙っていたが、渋谷か六本木がいい、と言うので、六本木で飲むことにした。待ち合わせ場所を決めると、一時間半で着くからね、と彩子は言った。僕は、待ってるよ、と言い電話を切った。彩子の声を聞いたおかげで、緊張感から幾分解き放たれたような気がしたが、それでもまだ胃のあたりが重いような感じがした。僕はやってきた各駅停車に乗り込んだ。電車はがらがらに空いていたが、僕は何となくドアのところに立ったまま外の景色を眺めていた。電車のスピードが上がると景色が流れるように見え、夕暮の中青白く輝く街灯や家の灯が次々と過ぎ去って行った。僕はひどく長谷部のベースの音が聞きたかった。今回のライブだけでも何とか出演してくれないだろうか、などと考えたが、彼が今置かれた立場を考えると、とてもそんな無理な注文はできそうになかった。僕は小さくため息をついた。僕の中で再び行き場のない熱のようなものが炎を灯していた。僕はバンドのことは考えるのを止めて、彩子のことを考えることにした。彩子の白くて細い指と、透き通るような表情を思い描くと、随分気分が良くなった。僕は中目黒で地下鉄に乗り換え、待ち合わせ場所に向かった。夕暮れの中、たくさんの人達が六本木の街を右往左往していた。僕は交差点の人込みの中に立ち、雑踏の中から彩子の姿が現れるのをじっと待っていた。





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