あなたの温もり 思うこと 不明編
1997年10月16日(木)
Utatane / YEN
「人を愛する」「人を愛する」って、いったいなんなんでしょう。
あなたには明確な定義がありますか?あなたが人を愛するという行為を、理論的に説明し、それを肯定的に確立することが、あなたにはできますか?
そうです、それは僕達の「本能」だから、説明する必要はない、と言うのは正論かも知れません。でも、もしあなたが「愛」というものを定義するならば、一体どのようなロジックを用いるのでしょうか。
元来日本語には「愛」という言葉は存在しなかったと聞いています。あったのは「慕」と「情」と「恋」であり、「愛」という単語自体は欧米の哲学の論理体系が輸入された時期に造語として作られたものと記憶しています。
僕は時々考えます、人を愛するという行為は、果たして本当に存在するものなのだろうか、と。僕の基本的なスタンスとしては、「愛というものはこの世の中には独立しては存在しえない」というものです(話がまとまらなくなることを避けるため、今回は「家族」、「親子」、「友人」という関係における「愛」は除外し、「男女間における「愛」」に話題を限定したいと思います)。
「愛」というのは、複雑に絡み合った人間の感情のうち、もっとも理論的に説明のできない部分を補うために強引に作られた操り人形のような存在なのではないでしょうか。
あなたにとっての「愛」というのは、いったいどのようなものなのでしょう。
想像してみて下さい。あなたは独身で恋愛経験の乏しい若者です。あなたはある異性と出会いその人に強く惹かれるようになっています。相手はまだあなたの想いに全く気付いていません。そしてあなたは自分がその人のことを「愛している」と思っています。
さて、そのような環境において、あなたは何を望んでいるのでしょう。もしかするとあなたはその相手と手をつなぎたいと願っているかも知れません。もしかしたらあなたは相手とセックスをしたいと思っているかも知れません。ひょっとするとあなたは相手に気付かれることなく、ひっそりと相手のことを思い続けたいと願っているかも知れません。それはケースバイケースであり、僕の想像の範疇を超えています。
御存知の通り、人間には当然ながら性欲というものが本能として備わっています。どんなに高貴な貴婦人であっても、その存在には性器がありそして性欲が存在するのです。「私には性欲は存在しない」と主張する方がきっとなかにはいるかも知れません。しかしそれはあくまでも人間としての「意志」がそう主張しているだけで、本能としての性欲を伴っていない人間というものは一部の不具者を除いては存在しません。
しかし人間は、不特定多数の相手に対して性欲を表示することはありません。人間はある範囲の中で異性との関係を確立し、そしてそれを維持しようと試みます。そして、基本的に(多数の例外の存在は当然あるという前提で)その関係性の輪の中に存在する相手に対してのみ性欲を表示していると僕は考えます。
では、我々が持つ「愛」は性欲なのか、と尋ねられれば、答えはもちろん「ノー」です。性欲という本能だけが「愛」を構成しているなんてことはありえないとあなたもきっと合意してもらえるでしょう。
特定の異性との関係を確立しようとする時には、そこには「優しさ」や「大切さ」等の要素が当然ながら入り込んでくる訳です。テレビのインタビューに答える若い女性の多くが理想の男性像を「優しい人」と答えるのは、ある意味では当然のことかも知れません。性欲は「負の欲求」として扱われる傾向が強く、公衆の面前で理想の男性像を「私を毎晩いかせてくれる人」答えることは社会通念上なかなか難しいというところでしょう。社会とか通念とか倫理という方向にまで話を拡げてしまうと収拾がつかなくなるので、話をもとに戻したいと思います。
では、どうしてあなたは特定の相手を「大切に」想うのでしょう、どうして「優しくしたい」と想うのでしょう。少しだけ考えてみて下さい。もしあなたが「大切に想う相手」があなたのことを虫けらのように扱い、あなたを侮辱し続けたとしたならば、それでもあなたはその相手を「大切に」、「優しく」することができるでしょうか、それも何十年もの間、ずっとそう思い続けることができるでしょうか。
僕達は無意識のうちに相手に対して「優しさ」を与える交換条件として相手からも「優しさ」を求めているのではないでしょうか。そこには「私でなければこの相手を充足させることができない」というエゴイズムが働いているのでしょう。
つまり、相手を「大切に思う」のは、相手も自分を大切に思ってくれるための条件であり、相手に「優しく」するのは、自分が欲する特定の人物を所有したいというエゴの具現化されたものではないかと思うのです。
それでは、人間は性欲とエゴイズムを表現する手段を「愛」と呼ぶのでしょうか。僕はそれではまだ不十分だと思うのです。そこにもう一つ加わる重要な要素として、「寂しさ」、「弱さ」というものが存在します。
人間以外の動物と比較しても、人間というのは非常に脆弱な生物であると僕は思うのです。それは人間には「個」として存在する能力が著しく欠落しているからだと僕は想像します。人間は孤独を恐れ、そして孤独を憎む傾向が顕著にあります。人間は他の動物と違い、「意志」というものを持っています。それが良いか悪いかは別問題として、「意志」を持つことにより、結果として我々は「孤独」を感じ、そして「孤独」は「寂しさ」を導き出すものだと想像します。「寂しい」というネガティブな「意志」を持ってしまった人間という存在自体が、僕にはひどく脆弱なものと思えて仕方がないのです。
話をまとめると、人間には本能として性欲が備わっている。性欲の存在により我々は異性を求める。しかし我々は不特定多数の異性を求めるのではなく特定の異性を求める。それは求めあう異性同士の微妙なバランスの上で成立するお互いのエゴと脆弱さの相互依存によって構成されているものだと思うのです。
結局人間社会というものは、基本的に個々の人間のエゴイズムと脆弱さの相互依存が網の目のように絡まりあって成立し、我々は自らの脆弱さをオブラートで包むようにその自身の醜さ、脆弱さというものを「愛」という神々しい言葉で呼ぶことによりバランスを維持しているではないでしょうか。
僕は自分がこの人間の不変のシステムに属していることを当然十分認識していますし、自分がそこに属していることを不本意に思うこともありません。
ただ、僕はどうしても時々考えてしまうのです。独立して存在する「愛」とは一体何なのか、果たしてそんなものはこの世の中に存在しうるのか。
きっと僕はこの問いを一生抱き続けていくのでしょう。そして、僕はこの問題を抱えたまま自分の一生を終えるか、もしくは死を目前にして、その答えを見出すのかもしれません。
僕は、この答えが見つかる日が僕の一生の間に訪れることを願いつつ、一方でその日の到来をひどく恐れてもいるのです。
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