真夏の夜の夢 思うこと Summer Edition
1998年8月9日(日)
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With or Without You / U2
昨日の日記はこちらに。
最愛の女性を失うというのは、どういうことなのだろうか。
昨日、アラーキーの写真集「陽子」を見ていて、その後でじわじわとこの思いが湧きだしてきた。ご存知の方も多いと思うが、「陽子」というのは、アラーキーの奥さんの名前で、奥さんは子宮肉腫で既に他界されている。写真集「陽子」では、被写体である陽子さんと、彼女とアラーキーのエッセイによって構成されている、彼ら二人の歴史のような作品だ。
で、アラーキーの気持ちを僕自身に置き換えてみる。当然のことながらうまくいかない。僕には、自分が愛する人を死によって失うということが、まだうまく想像できないのだ。あるいは想像したくないから、自動的に思考回路が閉じてしまうだけなのかも知れないのだが。
僕とニナは非常に仲良く日々を過ごしている。自慢する訳じゃないけれども、そこらへんのカップルとは比べ物にならないぐらい、自分でもビックリするぐらい、仲睦まじく生活している。僕達は今ようやく一緒に生活を始めて、これからどんどん色々な夢を実現させたり、様々な時間を共有したりして、一緒に年齢を重ねていこうと思っているし、きっと現実に我々は一緒に歩いて行くことになるだろう。
だが、パートナーが病気や事故でこの世界からいなくなってしまうという可能性は、決してゼロではない。当たり前のように生活している中で、明日の朝僕がトラックに轢かれてぺっちゃんこになるかも知れないし、ニナが突然心臓発作に見舞われるかもしれない。可能性はゼロでないばかりか、それぐらいのことが起こってもなんの不思議もない世界に僕達は今生きているのだ。
では、もし明日ニナがいなくなってしまったら、僕はどうすれば良いのだろうか。全然想像がつかない。いや、想像しようとすると背中に嫌な汗が湧きだしてきて、考えたくないから思考停止に自分を追い込んでしまうだけだ。そんなことは考えたくもない。
考えたくないから、そんなことは考えるのはやめてしまおう。では、逆に、僕がニナを残して死んでしまったとしたら、どうなるだろうか。これは自分がニナを失うよりも、もっと考えたくないぞ。自分の悲しみや辛さは自分でコントロールするしかないのだが、自分が死んでしまうことによって自分が愛する人が悲しむ姿を見る(?)のは、あまりにも忍びないではないか。
考えていると、いても立ってもいられなくなるのだが、結局僕の力ではどうすることもできない部分の話しなのだ。いや、どうすることもできない部分の話しだからこそ、いてもたってもいられなくなるのだろう。
愛する人を失うことを想像して恐怖に打ちのめされて日々生活するなどというのはひどく馬鹿げている。でも、万が一の可能性をまったく描くことなく青天の霹靂のごとくその瞬間がやってきたときの自らの無防備さ、パートナーの無防備さを思うと、心の片隅の奥底の重箱の隅あたりにでも、不測の事態が起こる可能性があることを認識しておくべきなのだろうとも思う。そもそもこんなことを想像すること自体が紫色のジャケットを着込んでダイヤモンドを埋め込んだ金縁の眼鏡をかけたエルトンジョンとルンバを踊るのと同じぐらい馬鹿げていることなのかも知れない。でも思わず想像してしまったんだから仕方がないじゃないか。
抗しがたい力に対抗する手段を持たない我々としては、せめて、悔いの残らぬよう日々を全力で、充実させて生きるぐらいのことしかできないのだろう。二人がニコニコ笑って生きていけるよう、精進するしかないのかも知れない。だが、たとえどんなに日々を全力で生きたとしても、愛する人を失う悲しみを癒す方法が見つかるというものではないということだけは認識しておくべきなのだろう。
陽子さんを失ったアラーキーの心のうちは、僕には思い描くことさえも許されないほど、神聖な場所なのだと、改めて認識した。人の死は、やはりとてつもなく、重い。それが愛する人であればなおさら。