秋の夜長に 思うこと 自閉編
1998年10月5日(月)
村上春樹が好きだ。
だからどうしたと言われると困るのだが、ふと宣言したくなった。村上春樹が好きだ。
いや、これは正しくない表現だ。間違った日本語だ。正確に言うなら、「村上春樹の書く小説の一部が好きだ」ということになる。あんなちんちくりんでレトロ趣味でしかも会ったこともないオッサン本人を理由もなく好きになったりはしない。さすがの僕でも。
村上春樹と言えば、「ノルウェイの森」ということになってしまうのだろう。あの小説はちょっとばかり売れ過ぎた。きっと書いた本人もあんなに売れると思っていなかっただろうし、元来あんなに売れるべきものではなかったのかも知れない。まあそれは僕がどうこう言ってももうすでに歴史に分類される話だから、どうすることもできないのだけれど。
僕の周囲には「村上春樹は大嫌い」という人がかなりの数いる。そして同時に、「村上春樹大好き」と言う人も少なからずいる。そして、あくまでも主観に基づいた曖昧な統計に立脚して言うなら、村上春樹大嫌いな人は「ノルウェイの森」しか読んだことがないという人が多く、村上春樹大好きな人の多くは、一番好きな小説に「ノルウェイの森」を挙げることはまずない。
「ノルウェイの森」は村上春樹の作品の中では異端であるというのが僕の意見。
小説でも歌でもなんでもそうなのだと思うのだが、ずば抜けたヒット作を放ってしまった作者というのはなかなか辛いものだろうと想像する。何はともあれ村上春樹と言えば「ノルウェイの森」、クリスタルキングと言えば「大都会」、あみんと言えば「待つわ」、田中康夫と言えば「なんとなく、クリスタル」というふうに、作者イコール代表作という図式がどうしても固定化されてしまうから。
でも代表作が本人のスタイルをそのまま示していたりする場合にはまだ幸せなんだろうけど(チャックベリーのJohnny B. Goodとかね)、偶然異端的にできあがった作品がバカ当たりをしてしまったような場合にはなかなか辛いものがあると思う。村上春樹の場合が、まさにこのパターンだと僕は思っている。
彼の作品を年代順に読んだことがある人なら周知のことだと思うが、彼のデビュー作「風の歌を聴け」から、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」の三部作に後に発表された「ダンス・ダンス・ダンス」を加えた四部作は、「ノルウェイの森」とは根本的に異なる種類の小説だと思うし、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」も、「ねじまき鳥クロニクル」も、やはり「ノルウェイの森」とは明らかに性質が異なる小説だと思う。
村上春樹の小説の魅力の一つとして、「解決されない謎」や、「明示されない主張」があると僕は考える。謎は謎のまま放置され、幻想は幻想のままずっとそこにあることがごく自然であるという手法だ(僕にはうまく彼の手法を言葉にすることはできない)。「ダンス・ダンス・ダンス」や「ねじまき鳥クロニクル」などで顕著に現されているこの手法が彼の小説を華やかなものにし、ある種の感動を僕に(全ての読者にではないよ、念のためね)与えてくれるのだが、「ノルウェイの森」にはそういった村上春樹独特のタッチはなりを潜め、どちらかと言えばコテコテの自己主張とレトロスペクティブな彼のエゴイスティックな世界が広がっている。
だが「ノルウェイの森」は発売後1年で200万部以上を売り、今も売れ続けている。累計でどれぐらい売れているのか僕は知らないけれども、とにかく売れ続けているだろうと推測する。今でもちょっと大きな本屋に行けば「ノルウェイの森」は目立つところで山積みにされているし、読んだという声をちらほらと聞いたりもする。
僕もそうだったのだが、それほど熱心な読書家でない人間がふらりと本屋に立ちよって、村上春樹でも読んでみるか、ということになると、どうしても「ノルウェイの森」になってしまうのだ。ここがケタ違いの大ヒット作を持つ作家のある意味で悲劇なんだと思う。
同じ「村上」でも、村上龍の場合、少し違う。彼のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」は確かに大ヒット作だが、彼の場合他にも話題作や過激なタイトルの作品を持っているおかげで、まったく村上龍を知らない人間がとりあえずの一冊を選ぶ場合にも、多少のバリエーションがあるように思う。たとえば「トパーズ」、「コインロッカー・ベイビーズ」、「愛と幻想のファシズム」、「すべての男は消耗品である」、「69」等。
ながながと書いたけど、結局何が言いたいかと言うと、僕は村上春樹の小説が大好きだってこと。それと、「ノルウェイの森」は確かに彼にとって最大の大ヒットだけど、あの作品は必ずしも彼の小説を代表するものではないと(僕は思っていると)いうこと。僕にとっての村上春樹の最高傑作は「ダンス・ダンス・ダンス」であり、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」であり、「ねじまき鳥クロニクル」であるということ。だから、「ノルウェイの森」だけを読んで、『村上春樹なんて大嫌い』と思った人も、他の小説もちょいと読んでみてよってこと。
でも僕は、「ノルウェイの森」も結構好きなんだけどね。少なくとも、あの小説と出会わなかったら今の僕はない。それだけは確かだな。
追記:伊集院静、「三年坂」読了。
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