夕方から降り始めた土砂降りの夕立の空を僕は一人でしばらく眺めていた。窓の外の街道を次々と走り続ける車は激しく水飛沫をはね上げ、まだ5時過ぎだというのにヘッドライトを点灯させている車も見られる。極端に暗くなった鉄色の空は夏の太陽をほぼ完全に覆い隠してしまい、もう日が暮れたのではないかと錯覚を起こすほどだった。僕は部屋の明かりをつけるかどうか迷いながら、フローリングの床の上に無造作に転がっているラッキーストライクの箱を拾い上げ、2本しか残っていない箱の中のタバコを無意識に確認しながら口にくわえ、ライターで火をつけた。
「こういう天気って、私嫌いじゃないよ」
「うん、まるで太陽がどっかに隠されたみたいな天気だよね、雲が真っ黒でさ」
僕は祐美の方を見ないで、窓の外を見つめたまま返事をした。つけっぱなしになっているテレビからは、もう10年以上前に録画したMTVのビデオから、シンディ・ローパーの「I Drove All Night」が流れていた。ブラウン管に映るシンディ・ローパーの青い映像がどす黒い空の手前にあるこの部屋の窓ガラスに反射して、街道を走る車と雨とヘッドライトの景色の中ににじむように溶け込んでいく。
「この曲はロイ・オービソンがやってるヤツの方が好きだな、もっと深みがあってさ」
祐美は床の上に俯せに寝転がったまま、クッションを抱きかかえるようにして、読んでいた文庫本から視線を外し、僕を見上げながらそう言った。祐美はクッションを抱いたまま状態を起こし、最近パーマをかけたばかりの黒くて細い髪をかき上げるような仕草をしながら、ペットボトルのミネラルウォーターを美味しそうに喉を鳴らして飲んだ。
僕はタバコの煙を正面の窓ガラスに向かって細く吹き付けてみた。青白いタバコの煙は僕の体内から出ると細い糸のようにまっすぐに窓にあたり、ガラスにあたった瞬間に方向性を失い半透明の塊となり、次の瞬間にはもう見えなくなった。雨がさらに激しくなり、窓に直接あたるようになっていた。遠くで稲光がして、一瞬窓の外の色調が反転し、次の瞬間には一気に闇の中に落ち込むような錯覚を覚えた。
祐美はゆっくりと立ち上がり、自分の背よりも高い、全身を映せる鏡の前でしきりに髪の毛をいじっている。シンディ・ローパーの曲が終わり、ビデオはいつの間にかモーリス・ホワイトの「I Need You」にかわっていた。僕が振り返ると、祐美は僕の方を見てゆっくりと微笑んだ。僕は祐美の微笑みに合わせるように微笑を返し、再び窓の外をぼんやりと眺めた。
昨日の夜中に大学時代の友達の一人の沢田から掛かってきた電話での言葉が僕の目の前で何か映像を作りだそうとしているようだった。その映像はまだ形をなさず、ぼんやりと鈍い光を放つ物体となり僕の前を行ったりきたりし続けた。



「彩子が死んだんだ。詳しいことは分からないけど、どうやら自殺らしい」
受話器越しに聞こえてくる沢田の声は、まるでそれが電話線を介していないかのように鮮明で、しかも手に取るように沈痛なものだった。いつもは無神経なぐらいに大声で話す沢田の声が、消え入るように小さく、しかし沢田の話す一言一言がビンビンと僕のアタマに反響して、僕は目の前が暗くなるような錯覚を起こした。
僕は背中越しに、眠っている祐美が起き出さないかどうかをチラリと見た。祐美の寝息を確認し、一度ゆっくりと深呼吸をした。僕はそれまで飲んでいたバーボンのロックグラスを持ったまま、沢田に何か言おうと努力したが、一瞬言葉を発することができず、搾り出すように一言発するのが精いっぱいだった。
「どうして」
「まだ分からないんだ。桜庭がさっき電話してきて初めて知ったんだ。立花なら何か知ってるかと思って電話したんだ」
「いや、俺は何も知らない。いつのことなんだ」
「3日前だったらしい。睡眠薬を大量に飲んだらしいんだけど、遺書も何も残ってなかったそうだ。旦那は店に出ていて留守だったらしい」
「桜庭はどうしてそのこと知ったんだ」
「いや、桜庭と彩子はお互い結婚した後もちょくちょく遊んでたらしいんだ。二人して料理学校に行ったりもしてたらしいんだ。桜庭が彩子を飲みに誘おうと思って電話したら家は葬式やってる最中で、ほら、死因が死因だからさ、旦那の母親が彩子の友達には全然知らせなかったらしいんだよ」
沢田はようやく話のリズムを掴んだらしく、いつもの早口に戻り一気に喋ったが、その声は若干うわずっていて、僕に妙な緊張感を与え続けた。
「お前、本当に何も知らないのか」
沢田はまるで僕が当然何かを知っていると決めつけるような言い方をしたので、ようやく僕も言葉が自然に口から出るようになった。そういう意味では沢田のこの一言は有り難かった。
「知るわけないだろ。俺は彩子が結婚してからは一度も連絡とったこともないんだからさ」
「彩子が結婚したのっていつだっけ」
「もう3年ぐらい前だろ。僕が今の仕事についてからなんだから」
僕がそれまで飲んでいたバーボンの酔いも手伝って大声を上げると、今度は沢田が黙った。僕は右耳に受話器をあてたまま、手探りでタバコを探し出してくわえ、火をつけた。沢田が何か喋るのを待つ間、僕は自分の目の前のコンピュータのモニタに映し出されていたインターネット日記の画面を閉じ、メイルチェックをした。メイルの到着を告げる短いアラートがコンピュータのスピーカから流れた。アラートが鳴った直後に、黙りこくっていた沢田が口を開いた。
「何だ、ネットやってたのか」
「うん。でも今ブラウザ閉じたよ」
「ISDNってやっぱりいいな。ネットと電話両方できてさ」
「まあね」
沢田は結局それ以上彩子のことを話そうとせず、僕も頭に鈍痛を感じるような気がして、あえてその話を続けようとしなかった。僕と沢田は2、3分ほどISDNの導入方法について話した後、電話を切った。
電話を切ろうとした時に沢田が慌てて付け加えるように言った。
「立花、近いうちに会えるか?」
「うん、そうしよう。いろいろ話したい」
僕は電話を切るとグラスに残っていたバーボンを一気にあおった。氷が溶けて薄くなったバーボンが喉元を降りていくと、僕はコンピュータの電源を切ることもせず、崩れ落ちるように布団に入り、眠った。



「ねえ、何か食べに行こうよ」
窓の外を眺めていた僕に祐美が話しかけてきた。
「うん、そうしようか」
僕と祐美は服を着ると重い部屋のドアを開いた。大粒の雨が猛烈な勢いで降り込んでくる中、僕達は急いで傘を開くとびしょびしょになりながら階段を降りた。3階にある僕の部屋から1階に降りるまでの間に大粒の雨に打たれてあっという間にカラダ中がずぶ濡れになった。僕の前を歩いていた祐美はまるで突然の夕立を楽しむかのように、軽い足取りで路地を歩いていく。僕はいつもの癖で郵便受けを開いてみた。いつも通りの裏ビデオのちらしが1枚と「市役所便り」、それとちょっと厚みのある、薄いピンクの封筒が1通入っていた。見覚えのある、整った字体で僕の住所と名前が横書きに書かれている。右手で傘を持ったまま左手で封筒をひっくり返すと、そこには彩子の名前があった。
「どうしたのー?」
街道の歩道のところで祐美がこちらを向いて僕を呼んでいた。僕はズボンのポケットにそのピンクの封筒を突っ込むと、祐美の方に向かって小走りに歩みよった。
「中華にしようよ」
「うん、じゃ、いつものとこ、行こうか」
バケツをひっくり返したような夕立の中、僕と祐美は街道の坂道をゆっくりと登り始めた。歩道の上はまるで川のように雨水が流れ、夜の空を反射した黒い水の流れのように見えた。






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