彩子と僕が最初に話をしたのは僕が1回目の大学1年の4月だった。彩子は大学の必修科目の英語Iの授業で偶然僕の隣の席に座らされていた。英語Iの若いアメリカ人の講師はやや茶色がかった濃くてサラサラの金髪をきれいに七三わけにして、細くすらっとした体をスーツで軟らかく包んで教壇に立っていた。
会話を中心に進められる毎週月曜日の2限のその授業では、その外人の講師がまだ日本人の名前を覚えられないとかいう理由で、大学の授業のくせに僕達は名簿順に並んで座らせられていた。僕の定位置は前から3列目、中央の通路のすぐ脇の席だった。まだ入学して間もない時期だったこともあり、僕は他に話をする相手もなく、いつも独りでウォークマンをしたまま本を読んだりして、授業が始まるのを待っていた。
「教科書見せてもらってもいいかな。わたしまだ教科書買ってなくてさ」
授業が始まってすぐに、彩子は小さな声で僕に囁いてきた。まっすぐに顔を見るにはあまりにもお互いの距離が近すぎるため僕はちょっと斜めに彩子の方を向きながら黙って教科書を彼女の方へとずらし、小さく頷いた。
若いアメリカ人の講師は、教科書に載っている例文をちょっと変な発音で読み上げ、それを学生に順番に暗唱させていた。僕も彩子も順番が廻ってこなかったので何も暗唱させられなかった。授業が終わると彩子は肩よりも少し長い、茶色に染められた髪をかき上げるような仕草をしながら「ありがとね」と言い残し、教室の後ろの方に座っていた同じクラスの女の子と2人で教室を出ていった。僕は彩子が教室から出ていくのを何となく見送り、カバンの中からウォークマンを取りだしてヘッドホンを両耳にすると、一人で教室を出た。結局その時ぼくは彩子の顔を全然覚えることができなくて、帰りの電車の中でちょっとだけ後悔した。
僕が大学で独りでいるのはこの授業に限ったことではなく、独りでいるのが基本形で、誰かと一緒にいるとひどく疲れてしまうことが多く、ひどく面倒な気分になってしまう。クラスの男の顔はいくつか憶えてはいたが、なんとなくその連中と行動を共にすることが嫌だった。
彼らは大体いつも何人かで集団を形成しており、きまってニコニコ笑いながら話しかけてくるのだが、僕はそんなときに限ってすごく機嫌が悪かったりとか、バイト疲れで眠かったりとか、急いでいる時だったりとかその他くだらない理由とかで話しかけられたくなかったりすることが多く、また彼らが形成する集団の異様に遅い足取りにも疲れてしまった。誰もイニシアチブをとらないためにどちらに向かうかもはっきりせず、何となく惰性で道なりに歩いているという感じの歩調に耐えられなかった。
集団の中の一人がトイレに行くと言うと他のメンバーも何となくぞろぞろとトイレに付いていき、誰かが本屋に行くと言うとまた皆でぞろぞろと付いていく。丁度大学に入学したばかりの時期だったのでみんな教習所に運転免許を取りに行こうとしていたのだが、自宅が全然離れているような奴等がどうして同じ教習所に通う相談なんかしているんだろう、とずいぶん不思議に思った。クラスの男達とは自然と少しずつ距離を置くようになり、彼らの方でもあまり積極的に僕には話しかけないようになった。その頃の僕は他人とのコミュニケーションがひどく苦手だったので、みんなが話しかけなくなったことで逆にほっとした気がしていた。ただ、沢田だけは例外で、なんだかんだでポツリポツリとしゃべっていたような気がする。
沢田は僕が大学に入学して最初に僕に話しかけてきた人間で、独特のペースと笑顔を持った面白い奴だった。僕の席の後ろに座っていた沢田は大学のカリキュラムか何かについて僕に質問してきたのだが、何となく話をしているうちに授業が終わってしまい、そのまま校舎の外に出て、ベンチで1時間以上お互いについてあれこれ話をしたりした。沢田は葉山から毎日遠路はるばるこの大学まで通ってきていること、高校時代は女子大の付属の共学校に通っていたこと、友達にはツッパリが多く、番を張っているヤツともすごく仲が良かったことなどを話し続けた。僕が沢田の話しにちっとも感動も緊張も委縮もしないことがいかにも不思議だという感じでちょっと不満げな顔をしたが、僕はタバコに火をつけて黙って聞いていた。「タバコ吸わないのか?」
「いや、毎日は吸わない。飲みに行った時とか、気が向いた時だけ吸うんだ」
僕は気が向いた時だけタバコを吸うという人間を初めて知ったので、そのこと自体にずいぶん驚いたのだが、沢田の方はそんなことは一向に気にしていないという感じだった。
僕は人の視線を覗き込むような癖があり、相手が緊張していたり不安がっていたりするとすぐにそれに気付いてしまい、ひどく居心地が悪くなるのだが、沢田は不思議と初対面の時からそう言った緊張感や不安感を瞳に浮かべず、ニコニコと笑ったまま何とも大らかな調子で話をしてくれるので、僕も徐々にガードが下がってきたと見えて、いつの間にか自分のことを話す気になった。
「そう言えば立花はどこに住んでんだよ」
「西麻布」
「西麻布、知らないなあ。23区内か」
この一言が僕に対してずいぶん強い作用を与えた。僕は軽く深呼吸をしてから付け足した。
「六本木のすぐ近くだよ」
僕は沢田の瞳を覗き込むようにして言った。
「六本木ってあの六本木かよ。すげえな、あんなところ、俺まだ一回しか行ったことないぜ」
「そう言うと思ったよ」
僕は顔がほころんでいくのを自覚しながらゆっくりと沢田の方に向き直りながら言った。僕はタバコを口にくわえたままカバンを手に持ち立ち上がりながら言った。
「コーヒーでも飲みに行かないか」
「いや、4限の授業は出ないとまずいんだ」
「何の授業だよ」
「生物学」
「あんなもん出たって何の得にもならないだろう」
僕はタバコの灰をキャンパスのアスファルトの地面の上に落としながらしかめ面をしながら言ったが、沢田は授業に戻ると言って聞かなかった。僕と沢田はそこで別れ、沢田は授業へ、僕は六本木の喫茶店へと向かった。外堀の脇の遊歩道を歩くと、盛りを過ぎた桜の花びらがヒラヒラと舞っていた。薄曇りの春の日の淡い灰色の空と桜の花びらの色が心地良かった。
僕は午後の中途半端な時刻のせいかいつもよりも人数の少ない地下鉄に乗り込み、さっきまでの沢田との会話を何となくノートにメモしてみたりしながら有楽町で電車を乗り換え、六本木の駅を降りた。駅を出ると僕はまっすぐにいつもの行き付けの喫茶店へと向かった。その喫茶店は六本木と西麻布の境界線の西麻布側にあり、テレビ朝日のすぐ近くにあるせいか、いかにも業界人風の人間もいたし、普通のサラリーマン風のひとも多かった。古くさいジャズ喫茶風の、黒く焦げたような木のテーブルとギシギシと軋む小さめの椅子が雑然と並んでいて、薄暗い照明の中に入るとちょっとだか時間がゆっくり進んでいるような錯覚を覚えるのが心地よくて、僕は毎日のようにその店に足を運んでいた。
ギシギシと妙な音を立てる重たい木のドアを開くと、いつも通りドアに取りつけられたベルがちりんちりんと乾いた音を立て、たっちゃんとポールとみこさんが一斉に僕の方を見た。テーブルには3組の客がいた。1組は常連の吉田さんと吉田さんと一緒に働いている人。吉田さんはテレビ朝日のディレクターかなんかで結構偉いらしいということを聞いたことがあるが、僕は直接吉田さんからシゴトの話なんか聞いたことがなかったので、いつも野球帽をかぶっていて、野球帽から白髪混じりの長髪がはみ出している変なオヤジ程度にしか彼のことを考えたことはなかった。あとの2組はスーツを着たサラリーマンで、それぞれテーブル席に独りで座り、店に山ほど置いてあるマンガ本を読みながらコーヒーを飲んでいた。
僕がまだ誰も座っていないカウンター席に座ると、たっちゃんが話しかけてきた。
「なに、立花、学校の帰りなの?」
「うん、今日は学校で変なヤツと仲良くなったんだ」
「そっかそっか、友達ができるってのはいいことだよ。今度その友達も連れてこいよ。で、どうすんの、立花、メシ食ってきたの?何か食うか?」
たっちゃんはゆるくウェーブのかかった長髪を自慢するようにゆするような仕草を繰り返しながらニコニコ笑って僕に尋ねた。詳しいことは分からなかったけど、この店の店長はどこか別のところにいるらしくて、たっちゃんがこの店を任されているらしい。たっちゃんは僕よりも5歳か6歳ぐらい年上のヘビメタとバイクが大好きな単純な男で、店の客が常連だけになると、いつもBGMをヘビメタに変えてしまってみんなに迷惑がられていた。僕が幼なじみの高野に誘われて初めてこの店に来たとき、たっちゃんは子供のころ、当時僕のばあちゃんがやっていた英語教室に習いにきてたことがあるって笑話のように僕に言って聞かせた。家に帰ってばあちゃんにたっちゃんのことを憶えてるかって尋ねたら、僕の家の近くにあった米屋の息子だろ、憶えてるよ、て言われた。次に店に行ったときにたっちゃんにそのことを言うと、すごく嬉しそうに「ばあちゃん元気か」って言った。「学校で昼食べてきたからいいや、コーヒー飲みたいな」
たっちゃんは黙って頷くと、まな板の上のソーセージか何かの仕込みを再び始めた。それまでたっちゃんの隣で外を眺めていたポールが僕のコーヒーを作りはじめた。みこさんは吉田さんのテーブルのところで何か話していた。ポールは慣れた手付きでコーヒーを2杯分ドリップし、一杯を僕のために客用のカップに、もう一杯を自分用のマグになみなみと注いだ。僕はコーヒーを一口飲み、カバンの中からタバコを取り出して一本吸った。いつもと同じように、カウンターに座って外の通りをせかせかと歩き去る人達を眺めていると、ここだけ時間がゆっくり進んでいるかのような錯覚に陥り、ゆっくりとタバコの煙を吐き出した。BGMは、コルトレーンのバラードだった。
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