「ポール、コーヒーもう一杯ちょうだい」
僕はカウンター越しに立ったままBGMに合わせて体でリズムをとっていたポールにそう言いながら空になったコーヒーカップを差し出した。ポールはボサボサの長髪を揺らすように頷くと二杯目のコーヒーの作成にかかった。コーヒーをドリップするための、口が細く白いホウロウ製のケトルはこの店の歴史を物語るかのように煤と熱で下の方が茶色っぽく変色し、いまにも溶け崩れていきそうな気がした。
ポールは僕よりも5歳ぐらい年上のギタリストで、一応プロだった。困った顔をしたり笑ったりすると、目が垂れてポール・マッカートニーにそっくりになるので、僕がふざけて「ポール」って呼び始めたら、それがあっという間に店中に浸透してしまい、いまや彼は佐藤さんではなく、ポールになってしまった。本人もポールと呼ばれることが嫌いではないらしく、ポールって呼ばれるとちょっと恥ずかしそうに笑っている。
彼はプロのギタリストだけれども、ギターで仕事は全然せず、毎日この喫茶店でバイトをして食べているようだった。詳しい理由は聞いたことがなかったけれども、多分優しすぎてのし上がっていくことができないからなんだろうと、僕は勝手に想像していた。大学に入学したばかりの僕から見ても、ポールはいかにも人が良くて気が弱そうな、ちょっと頼りないギタリストだったが、彼の日常の大人しさとは裏腹に彼のギターのテクニックは本当にすごいものがあった。
僕は高校を卒業する直前に高校時代の友人からライブに出ないかと誘われた。当時は高校時代に結成していたビートルズのコピーバンドを解散したばかりだったので、仕方なく即席でメンバーを集めた。殆どのメンバーは高校時代の同級生やその友人で集めることができたのだが、ギターだけがどうしてもいなくて、無理を承知でポールを誘ってみたところ、あっさりOKがきた。
その時集まったメンバーは偶然僕以外はものすごくテクニックのある連中だったが、その中でもポールのテクニックとセンスは他のメンバーを圧倒していた。特に出過ぎるでもなく、しかし自信に満ちた彼のギターは他のメンバーを惹き付けた。
練習していたのはボウイやブライアン・アダムスなんかのコピーだったが、僕はスタジオに練習に行くのがいつも楽しみで仕方がなかった。メンバーはみんなすごく上手だし人間関係がまたひどく上手くいっていて、ぎすぎすした空気が全くなかった。ライブは大井町にある小さなホールを借りて行なわれた。僕達は前座みたいなものだったから、時間も短くてお客もあまりいなかったけれども、あの日のライブのビデオやテープは、ただ意味もなくシャウトし続けるボーカルの僕を除けば、今見ても素晴らしいと思うほど完成度の高いものだった。特に、ボウイの「Blue Vacation」という曲をみんなでプログレッシブ・ロック風にしてインプロヴィゼーションで演奏した時の、ポールのギターソロには鳥肌がたった。アドリブやオリジナルの曲に慣れていない高校生の観客達には何がなんだか分からなかったらしく、「なんでBlue Vacationがあんなに長くなっちゃうんだよ」などと文句も言われたりしたが、僕達はとても満足していた。
ライブが終わった後、ホールの近くの自販機でビールを買い、JRの駅の階段の隅っこのほうに座ってみんなでビールを飲んだ。ポールは「まだ演り足りないな」とニッコリ微笑みながらみんなに言った。そし「立花、また近いうちにもっとちゃんと演ろうぜ」と、真面目な顔をして付け足した。僕は大袈裟なくらい強くうなずき、他のメンバーも口々に「また演ろう」と言ってその日は別れた。



ライブから一カ月以上が過ぎようとしていたが、ポール以外のメンバーはそれぞれ大学の入学式があったり部活に入ったりバイトを始めたりとひどく多忙な時期に突入してしまい、ほとんど連絡がとれないような状態が続いていた。僕としても早くまたスタジオに行きたかったのだが、僕自身も何となく足が地についていないような感じでフワフワしていたし、まだバイトもきちんと決まっていなかったので、敢えてバンドの話はしていなかった。

二杯目のコーヒーが僕の前に置かれると、テーブル席に座っていたサラリーマンがぽつりぽつりと店を出ていき、店の中はカウンターに座っている僕と吉田さんのテーブルだけになった。たっちゃんはまだソーセージの仕込みを続けていて、ポールは何か買い物に出かけていった。みこさんはまだ吉田さんのテーブルのところに立ったまま、銀色のお盆を抱きかかえるようにして何か夢中になって話を続けていた。僕はカバンの中からジョセフ・コンラドの「斜影線」を取り出して読み始めた。しばらくそれほど苦くないコーヒーをゆっくりすすりながらページをめくっていると、後ろからみこさんが話しかけてきた。
「立花君、何読んでるの?」
「あ、コンラドって言う人の本」
「でもずいぶん古そうな本じゃない、古本屋で買ってきたの?」
「あ、これ、大学の図書館から借りてきたから」
みこさんはちょっと意地悪そうに微笑んだ。
「でも立花君、ちっともちゃんと読んでないでしょ。さっきから、あっちのページを開いたり、こっちのページにしたり、メチャメチャな読み方してるじゃない」
僕は両方の頬が少し熱くなるのを感じた。開いていた本を反射的に閉じた。
「いや、もうこの本読むの3回目だから、適当に好きなところを開いて思い出すようにして読むのが楽しくて」
僕は何だか言い訳してるみたいだと感じて黙った。
「面白いの?」
みこさんは本のカバーを覗き込むようにして言った。
「うん、面白い」
「じゃ、今度読ませてくれる?」
「あ、でもこれ、大学の図書館から借りてきた本だから」
「そんなに固いこと言わなくたっていいじゃない、すぐに読んだら返すわよ。こう見えても私、速読できるのよ」
みこさんはカラカラと笑い、カウンターの裏の方に入っていった。僕もつられて何となく笑った。
僕はみこさんのことは殆ど何も知らなかった。ポールやたっちゃんよりも年上らしいってことと、この店のオーナーの知りあいらしいってことを、いつか常連の一人が僕に教えてくれた。みこさんは背が低くてほっそりした感じの美人だった。いつもあっさりした格好をしていたが、着こなしはなかなか格好良かった。ただ、僕はなんとなくいつもみこさんにはちょっと近付きがたいものを感じていたので、店にきても向こうが話しかけない限りは話しかけなかった。みこさんの方でもそんなことはどうでもいいって感じでいつも澄ましていた。だから今日みたいに急に話しかけられるとちょっとドギマギしてしまう。僕は再び「斜影線」のページを開いたが、何だか集中できなくなってきたので止めてしまった。僕はタバコを一本吸い、そこらに山積みになっているマンガ本の中から適当に一冊を引っ張り出して読み始めた。小学生のころに読んだことのある恐怖マンガだった。








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