窓の外は相変わらず薄曇りだった。いつの間にか少しずつ空が暗くなってきているような気がして、夢中になっていた恐怖マンガから顔を上げると、黒く塗られた壁に掛かる振り子時計は4時過ぎを指していた。僕はカップの中に半分ほど残っていた2杯目のコーヒーの飲み干すと、両手を高く伸ばしてのびをして、タバコに火をつけた。いつの間にかたっちゃんはテーブル席の隅っこの方でバイク雑誌か何かを読んでいた。長髪の彼が、パステルカラーのかわいらしいプリント柄のエプロンをしたまま、少し遠慮気味に小さくなってバイク雑誌を読んでいるという光景が何とも楽しくて、僕はしばらくたっちゃんの方を眺めていた。そのうち僕の視線に気付いたたっちゃんは、「何か食うか?」と尋ねてくれたが、僕は首を振り、「そのエプロン妙に似合うよね」と笑顔で言った。たっちゃんは答えずにニヤニヤしているだけだった。僕もカウンターの方に向き直って灰皿の上にタバコの火をこすり付けて、赤く燃えるタバコの火だねが少しずつ白い灰になっていく様子を、カウンターの上に目がくっつくようにして見つめていた。
「今日は誰も来ないわね」
みこさんがまた僕のそばにきて、退屈そうに言った。吉田さんはいつの間にか帰ってしまい、みこさんは何か雑誌をパラパラとめくっていたのだった。
「ねえ、さっき読んでた本、ちょっとだけ今読ませてもらってもいい?」
みこさんはちょっと照れてような仕草をしながらも相変わらず鋭い口調で言い、口元をくしゃっと曲げてみせた。僕はカバンの中からコンラドのハードカバーを取り出すと彼女に手渡した。彼女は僕の横に立ったままパラパラとページをめくり、「ありがとう」と言って再び窓際のテーブルに戻っていった。
再び読みかけの恐怖マンガに視線を落とすと、すぐに重い木のドアが開き、ドアに取りつけられた鈴が鳴った。赤と白の派手なレザーのつなぎを着込み、同じく赤と白の模様の入ったフルフェイスのヘルメットをかぶった高野が勢いよく店に入ってきた。
「よお、立花、相変わらず暇そうだな」
「見てのとおりだよ」
高野はレザーのつなぎのファスナーを首元から一気に腰の辺りまで下げ、苦心して両腕を抜いた。下半身はつなぎを着たまま上半身は白のTシャツ一枚になると、ヘルメットをカウンターの下に無造作に置き、入ってきた時の勢いそのままにカウンターにどしんと座った。たっちゃんが読んでいた雑誌をテーブルに伏せてカウンターの中に入った。高野は出されたおしぼりで顔と手を入念に拭いた後、溶け掛かったアイスキューブの浮かんだ小さくて安っぽいグラスに入った水を一気に飲み干し、僕の方を見て笑った。
「バイク乗りにはたまらない季節になってきたぞ」
僕は頷いた。
「うん、そうだろうな。どこまで行ってきたんだ?」
「いや、今日は遠出はしてないんだ。ちょっと買い物しに都内をぐるぐる回ってただけ」
高野はそう言うとカウンターの上に乗っかっている小さなメニューを取り上げると、裏と表を眺め回し、チーズサンドとアイスコーヒーを注文すると、空になった水のグラスを差し出しておかわりをした。
「なんだよ立花、お前まだバイト始めないのかよ」
高野は二杯目の水を再び一気に飲み干すと、華奢な体を僕の方に向け、サラサラで細い髪を整えるように手でなで回しながら僕に言った。
「うん、まだなんだ。何となくまだ面倒でさ。」僕が言うと高野はふん、と鼻を鳴らし、ちょっと間を置いてから微笑んだ。
「あのさ、立花さ、お前せっかく勉強して大学入ったのにさ、どうして毎日そんなに詰まらなさそうなんだよ。毎日ここに来てボーッとしてさ、いっつも一人でボンヤリしててさ、学校楽しくないのかよ」
「そうそう、立花ってさ、なんとなく最近暗いよな」と、たっちゃんがアイスコーヒーをグラスに入れながら高野に同調した。僕は突然両側から挟み撃ちにされたような感じで、何も言えず口の中でモゴモゴ言っていたが、高野はそんなことはどうでもいいといった風で、さらに続けた。
「俺なんかさ、バカだからさ、高校バイクで退学になって他にやることもないから定時制に入り直してさ、まだ高校生やってるけどさ、結構楽しいぜ、学校。行きゃ行ったでそれなりに友達もいるしさ、暇つぶしぐらいにはなるだろ。でもさ、俺の感覚では大学っていうのはさ、定時制の高校なんかよりももっともっと華やかで何て言うか、みんなで輪になって「青春」って感じの場所だと思ってたんだけどな。なんで毎日そんなに詰まらなさそうな顔してるんだよ」
「別に輪になって青春する為に大学に入った訳じゃないよ」
「じゃあ何しに大学行ってんだよ」
高野はそう言うと、カウンターの上の僕のタバコを一本抜き取ると、自分のジッポーをレザーのつなぎの中からとりだし、勢いの良い火でうまそうに火をつけた。僕は高野からタバコのパッケージを取り戻すと自分も一本口にくわえ、自分のライターで火をつけた。僕は高野の質問には答えずにカウンターの中で細く湯気を上げ続けているケトルの細い口をぼんやりと眺めていた。僕は本当は「勉強」と言いたかったのだが、あまりにも白けた答えになってしまうことは重々承知だったし、今の自分が決して大学で毎日勉強をしたいとは願っていないことも分かっていた。高野はしばらく僕の返事を待っているようだったが、やがて再び「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。僕は手持ちぶさたになったので、3杯目のコーヒーを注文した。

高野は僕と小学校一年生の頃からの友人で、世間で言うところのいわゆる「親友」という部類に入る関係だった。虫取りやらカンケリやらケードロから始まって、インベーダーゲームやらブロック崩しやらガンダムを経て、キスやらおっぱいやらオナニーやらに至る、ようはお互いの成長過程を暴露しあって育ってきたようなものだ。僕はいつも成績はまあまあぐらいだったが、高野はいつも最悪だった。中学時代には高野はずいぶんいじめっ子達にいじめられていたが、本人には全くいじめられっ子としての自覚がなかったようで、飄々として毎日学校に来ていた。カバンを隠されたりプロレスの技を仕掛けられたりしても、いつもニコニコと笑っていて、いじめっ子達とも妙な感じでうまく会話ができる、異端児的ないじめられっ子だった。そのころの僕はと言えば、いじめっ子のこともいじめられっ子のことも許容することができずにいつも一人でいたのだが、高野だけは例外で、相変わらずニコニコして僕に話しかけてくるものだから、僕も何となく高野と遊ぶことが多くなっていた。
高野の家は町内の洗濯屋の一人息子で、家にはその頃はまだ珍しかったテレビゲームだのパソコンだのビデオだのが山ほどあり、遊び道具には困らなかった。洗濯屋ってそんなに儲かるのかと疑問に思うぐらい、高野はいつでも金には困っていないようだったが、彼はそんなものにはちっとも思い入れがないようで、どちらかというと家に一人で居ることが耐えられないとでも言う感じで、彼の周囲に山積みになっているモノを餌にしてクラスメートを家にやたらと連れ込んでいた。そういった時には僕は面倒臭くて高野の家には近寄らなかった。高野の方でも僕がそういう雰囲気を嫌っていることを分かっていて、誰も遊びにくる当てのない時に僕を誘った。僕と高野が二人で遊ぶときには、パソコンだのゲームだのには目もくれず、だいたいいつも部屋で当時大流行していた洋楽のプロモーションビデオを見たり、高野のお父さんが買ってきたビールだのウィスキーだのをこっそり飲んだりして過ごしていた。とにかく何にでも金にいとめをつけないので、一緒にレコード屋に行くと、僕が1時間半かかってデュランデュランのアルバムを1枚買う決心をする間に10枚近いアルバムを買い漁っていたりして、僕は良く羨ましいやらあきれるやら、複雑な気持ちになっていた。だいたい高野は2、3回聴くとどのレコードも飽きてしまうので、その後そのレコードを借りてきてカセットテープにダビングするのが何時の間にか僕達の暗黙の了解になってしまい、しまいには一緒にレコード屋に行くと、「立花何が聴きたい?」と尋ねてくるようになった。さすがに同級生にレコードをおごってもらうのはマズイと思い僕が何も返事をしないでいると、高野は淋しそうな目をして「何か食って帰らないか」と僕を誘った。僕はそんな時はいつも「いらない」と言い、レコード屋からすたすたと一人で出てきてしまった。高野はいつも後ろから追いかけてきて、一緒に家に帰り、買ってきたばかりのレコードを聴きながらこっそりウィスキーをコーラで割って飲むのだ。二人とも味なんてどうでも良くて、洋楽の新作レコードとお酒があれば良いという感じで、酔うまで飲む勇気はまだなかった。僕と高野の中学時代はまあだいたいこんな感じだった。

僕はある大学の付属の私立高に入学し、高野は私立の結構荒んだ学校に進んだ。高野は高校に入るとすぐにバイクに熱中し何回か思い切り転んでみんなをハラハラさせていたが、高校2年の夏休みに峠道でトラックにはねられて太股を複雑骨折し、学校にバイクがばれて退学となり、退院後都立の定時制高校に編入した。高野は相変わらず金には困っていないようで、家の前にはずらっとバイクが3〜4台並び、部屋にはいつも定時制の友達が居着いている。高校に入ってからも僕はちょくちょく高野の部屋に遊びに行っていたが、定時制の友達の一人とちょっとしたことからケンカになり、それ以来部屋には行かなくなっていた。



僕が3杯目のコーヒーを飲もうとしていると、ドアが開いてどやどやと常連が4〜5人入ってきた。いずれも顔だけ知っていて、まだ名前も知らないし、話もしたことがない人達だった。僕は軽く会釈をした。高野は常連達の何人かと懇意なようで、何やら勢いよくバイクの話を始めていた。いつの間にか窓の外は暗くなっていた。

高野が常連達のテーブルの方に自分のグラスを持って行ってしまったので、僕は一人でカウンターに座り、ぼんやりと彩子の顔を思い出そうと努力した。きれいに茶色に染められた髪、黒のニットのタートル、ブルージーンズ、しゃがれたような細い声、そこまではどうにか思い出せるのだが、どうしても顔の輪郭も表情も思い出すことができなかった。僕は目を閉じてもう一度彩子の顔を思い浮かべてみたが、やはりダメだった。僕はふうっとため息をついてカウンターの椅子の小さな背もたれにもたれた。彩子の顔を思い出せないことが、まるで今日一日の自分の行動の全てを否定してしまうような大事のようなため息だった。僕は何となく頬杖をついて脱力していた。常連達は僕の背中越しに何やら大声を張り上げたりバカ笑いをしたりしていた。高野の甲高い声もその中に混じっていた。ふいにたっちゃんが僕のところに来て、僕の肩に手を置いた。
「今日この後みんなで飲みに行くんだよ。ポールもみこさんも高野も来るからさ、立花も来いよ、どうせ暇なんだろ」
「どうせ暇なんだろ」
僕は口の中で繰り返してみた。確かに僕は暇だった。このまま店を出ればきっと僕は本屋かレコード屋を冷やかして家に戻り、いつも通り夕食を食べ、本を読むか音楽を聴くかして眠るだけだろう。
「どこで飲むんですか?」
本当は別にどこで飲もうが関係なかったのだが、何となくすぐに頷くのも悔しいので一応尋ねてみた。
「マサミの店だよ」
たっちゃんの答えを僕は全く理解しなかったが、場の雰囲気がすでに僕も参加するという方向に傾いているらしく、僕はなんとも心細い気持ちを何とか抑えようと必死に笑顔を取り繕っていた。高野が大声で「立花っ、今夜は飲むぞ〜」と喚いていた。僕はため息をつくと窓の外を眺めた。もうすっかり日は暮れて、ヘッドライトを灯した車の列が静かに流れていた。BGMはさっきからたっちゃんのお気に入りのヘビメタに変わっていた。








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