たっちゃんは口笛でお気に入りのヘビメタのギターソロを繰り返しながら、カウンターやテーブルの上を手際良く片付けていった。ポールも買い物から帰ってきて、薄汚れた布巾でテーブルの上を拭いていた。常連の人達は一人また一人と店にやってきて、いつの間にか10人を超えていた。みこさんはテーブルの上に乗っている空いたグラスや灰皿をきびきびとカウンターの上に載せていった。僕は手持ち無沙汰だったので、座っていたカウンター席から立ち上がると木の扉を開けてカウンターの中に入った。扉を押すと、蝶番がミシミシと音をたてた。
「お、なんだ立花、手伝ってくれんのか。」たっちゃんが笑いながら声をかけてきた。「悪いな」
僕は軽く頷くとみこさんがカウンターの上に順番に並べていった空のグラスや灰皿を洗い始めた。常連達は椅子から立ち上がり、ポケットに手をつっこんだりタバコをくわえたりしながら特に話に夢中になるでもなく、窓の外を眺めたり時計を覗き込んだり、時間を持て余しているようだった。常連達の中には、僕の知らない顔が半分ぐらいあった。女の人が3人いて、そのいずれも僕は初対面だった。カウンターから閉店後の狭い喫茶店を眺めると、いつもとはまるで違う場所にいるような錯覚を起こした。タバコのヤニと埃で汚れた壁には銀色の額に入ったジャズレコードのジャケットが3枚ほど掛けてあった。僕はグラスを洗いながらそのジャケットに書かれている文字を読み取ろうと努力したが、額のガラスの表面にベッタリとこびりついたタバコのヤニで読み取ることができなかった。かろうじて黄色い文字で「Mack the Knife」と書いてあるのが分かった。視線をシンクに戻してグラスについた泡を丁寧に洗い流した。業務用の無香料の洗剤の泡は渦を巻いて勢いよく排水溝から流れ出ていった。洗剤を洗い流されたアイスコーヒー用の厚手のグラスは天井からの明かりを反射してキラキラと輝いていた。僕は何となく手を止めて、グラスの角度を変え、反射する光りの変化を眺めていた。何かが僕の中で渦を巻いているような気がして少しだけ不安な気持ちになった。言葉にならない何かがグラスの反射光の中でゆらゆらと揺れながら僕に迫ってくるように感じた。僕はちょっと嫌な気分になってグラスを洗いカゴの中に置いた。

待たされている常連達がブツブツ言いだしたので、たっちゃんはみんなを先導して先に店を出ていった。ポールとみこさんと僕が店の中に残った。僕は残りのグラスと灰皿を全部洗い、みこさんが隣でそれを丁寧に拭き、一つずつ棚の中にしまっていった。ポールは椅子を逆さにしてカウンターの上に乗っけていた。店の片付けが終わるとポールは錆びの浮いた店のシャッターを、重そうに3分の2ぐらい下げた。車の音が遮断されるようになったせいか、急に店の中が静まり返ったような気がした。

店の片付けが終わると僕達はカウンターに座ってタバコを一本ずつ吸った。僕はみこさんがタバコを吸うところを初めて見た。いつものきびきびとした動きとは違い、みこさんはゆっくりと味わうように煙を吸い込むと、細い線を描くように時間を掛けて吐き出した。こんなにゆっくりタバコの煙を吐き出す人を、僕は初めて見た。ポールは灰皿の上にタバコを置くと立ち上がり、木の扉を押してカウンターに入った。冷蔵庫を開けて缶ビールを3本取り出し、カウンターの上に並べて置いた。
「はい、立花、バイト代」
ポールはカウンターの中の調理台の上に斜めに腰を下ろし、片手で器用に缶を開けた。
「ありがとう」僕も缶を開けた。ビールはまるで凍り付いているのではないかと錯覚する程に良く冷えていた。僕達は乾杯して、良く冷えたビールを飲み干した。その間僕達は殆ど口を開かなかったが、居心地の悪さはちっとも感じなかった。降ろされたシャッターの向こうから微かに聞こえてくる車の排気音をBGMにして僕達はほんの一瞬訪れる静寂を待っているかのように感じた。ポールは時々カウンターに指先を打ち付けながら何かハミングしていたが、僕はそれが何の曲なのかさっぱり分からなかった。ひどく時間がゆっくり流れているような気がして、僕は飲みに行くよりもこのままここでこうしていたいと思っていた。ポールはウェーブのかかった長い髪をかき上げるような仕草を繰り返し、それから2本目のタバコに火をつけた。



僕達は閉まりかけたシャッターの下をくぐり抜けるように店の外に出た。ポールがドアに鍵をかけ、シャッターを足で踏み下ろしている間、僕はみこさんと二人でポールの背中を眺めていた。みこさんはさっきまで髪を止めていたピンを外し、肩よりも少し長い、パーマの掛かった細くて柔らかそうな髪を春の夜風に揺らしていた。
「立花君って、お酒強いの?」
「さあ、どれぐらい飲めるのか自分でも分からないんですよ。高校生の時に一回友達と記憶がなくなるまで飲んで、渋谷のゲームセンターで競馬ゲームの上に吐いたことがあったけど、それ以来そんなに飲んでないし」
みこさんは驚きと喜びを顔に素直に表して僕にその時の詳細を説明するように迫ったが、ポールが僕達を呼んでいるのを言い訳にして僕は黙って歩き始めた。
「後でじっくり聴かせてね」みこさんはそう言うとポールと並んで歩き始めた。僕は二人の後ろを追った。春の夜特有の湿気を孕んだ空気が六本木の街に満ちていた。サラリーマンの3人連れが急ぎ足で僕達を追い抜いていく。やけに派手なワンピースを着た東南アジア系の女性が鼻の奥がむずむずするような強い香水の匂いを漂わせながらクラブへと出勤して行く。すれ違う人達はようやくコートを脱ぎ捨てられた解放感からか、みんな弾むように歩いているような気がした。僕は大声で話し続けながらすれ違う若い女の子や、抱き合うように寄り添い、囁き合うカップルを呆然と眺めているうちに、突然誰でもいいからぶん殴ってやりたくなった。胃袋の下側から何か熱い感覚が喉元に昇ってきて、首から後頭部へと抜けていくような感覚を感じた。後頭部へと伝達された熱はそこから拡散せずに僕の後頭部を熱し続けた。もし今誰かが僕の肩にぶつかってきたりしたら、僕はきっとその瞬間にその相手の顔を思い切り殴ってしまうだろう、僕は一種の確信にも似たような苛立ちを抱えたままポールとみこさんの後をついていった。
若い女の子達が大声で話しながらすれ違っていく。すれ違いざまに彼女達は必ず僕を見た。僕は彼女達の好奇に満ちた視線を感じるとさらに苛立ちを感じた。自分の体中の神経が一斉に体の外に向かって開いてしまったかのような感覚に襲われて、鳥肌が立つのが分かった。僕は視線を落としてアスファルトの歩道を見つめるようにして歩いた。交差点の信号で僕達は立ち止まり、ポールとみこさんが僕の両側に立った。
ポールは僕を見上げるような仕草をして、「立花、こうやって一緒に歩くと、お前ホントにでかいよな」と言った。みこさんが優しい、しかし鋭さを失わない笑顔を見せて「立って話してると首が疲れちゃうよね」とポールに相槌を打った。僕は微笑もうと努力したが、どうにもうまくいかず、自分の顔が引きつっているのが自分ではっきり分かった。僕は信号が青に変わるのをひたすら待ったが、僕にはそのほんの数十秒がまるで何時間にも感じられた。ポールとみこさんは僕の態度は特に気にしていないようで、二人で何か音楽の話で盛り上がっている様子だった。交差点は夜の繁華街へと繰り出して行く人達でごった返していた。僕は俯き、横断歩道の白線の数を数えながら信号を渡った。途中で何人かと肩がぶつかったが、僕は相手をぶん殴ることを忘れていた。ポールとみこさんが雑踏に紛れて路地を曲がっていったとき、このままUターンして帰ってしまいたいと思ったが、翌日になってまた言い訳をするのが嫌で、結局彼らについて店に入った。店に入るときに腕時計を見ると、丁度8時になるところだった。








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