居酒屋の店内は妙に明るく健康的で、ねじり鉢巻きの店員達が必要以上に大声を出しながら走り回っていて、客の大半は学生風の若者だった。10人以上のグループの客が多く、白いTシャツにブルージーンズの若者が立ち上がってビールジョッキを一気に空にして周囲から拍手を受けたりしていた。

天井に埋め込まれた安物のスピーカーからはさっきからカルチャークラブのThe War Songが大音響で掛かっていて、従業員や客の罵声と混じりあい、何やら腹に響くうねりのようなものを作りだしていた。僕はポールとみこさんの後ろを、軽く俯いたまままっすぐ歩いていった。一番奥の席にたっちゃんと高野が並んで座っていた。10人ほどの常連達がたっちゃんを中心にするように両側に座っており、一番端の椅子が丁度3つ空いていた。そのままごろごろと転がして運べるような背もたれのない丸椅子だ。ポール、みこさん、僕の順にテーブルにつくと、すぐに高野が半分ほどに減った生ビールのピッチャーを持ってやってきた。既に大分飲んでいるようで、目の回りを薄くピンクに染めていて、口元にはだらしのない笑みを浮かべている。

高野は酒好きだが、いつもすぐに酔う。酔うといつも目の回りだけを赤くして、やたらと元気に笑い続ける。特に害がなく、周囲を盛り上げるので飲み会の席では重宝されるタイプだ。高野は少し飲んで酔うともうそれで満足してしまい、後は適当に騒いでいるだけで、深酒をするところを見たことがない。ビール以外は、安物のウィスキーをコーラで割ったりしてチビチビ飲むぐらいで、酒の味が好きというよりは、酔うことが好きというタイプだ。

高野は僕達のグラスにピッチャーからビールを注いで回ると、自分のグラスを持って再びやってきて、僕の隣にいた常連の人を押しのけて無理矢理僕の隣に座り、勝手に乾杯の音頭をとった。僕達は高野に導かれるままに遠慮がちに乾杯をした。周囲の客の喧騒に負けないぐらいの大声で、「立花、お前暗いよ、暗い!」と叫びながら自分の席に戻っていった。

僕達から一番遠い席でたっちゃんがこちらを指差しながら何か言っている。たっちゃんの隣には今日初めて会った女の人がいた。ゆるやかなパーマの細そうな髪が肩よりも少し下まで届いてる。清潔そうな雰囲気の優しい顔をした24、5歳という感じの女性だが、どこにも印象が残らないタイプだ。きっとこの店から出た途端に彼女の顔を忘れてしまい、二度と思い出すことはないというタイプだ。たっちゃんはどうやら僕達のことを彼女に何やら説明しているらしく、時々僕達の方を指差しながら笑ったり頷いたりしている。彼女の方も僕達の方を見て微笑んでみたり頷いたりしながら、薄いブルーの飲み物を飲んでいる。

僕がぼんやりとたっちゃんとその横の女性のことを眺めていると、僕の隣に座っていたみこさんが話しかけてきた。「ねえ、立花君、立花君が今一番したいことって何なんだろう?」

みこさんは微笑んでいるようにも見えるし、真面目な顔をしているようにも見えた。彼女は手に持ったままのビールのグラスを小刻みに揺らすような仕草をしながら僕の方を見ていた。
「ずいぶん唐突な質問ですね」僕は笑いながら言った。
「そう、唐突にそう聞きたくなったの。立花君は何をしたいんだろう」
みこさんは視線をじっと僕に向けたままでいるので、僕も笑ってごまかす訳にいかなくなった。
「うーん、まだ良く分からないな」
僕は自分のビールグラスを見つめながら言った。正直言って僕は自分が将来何になりたいかなどということを真剣に考えたこともなかった。高校を卒業してからは毎日色々なものを無理に詰め込まれているような気がして何も自分からする気にならなかった。大学の授業もつまらなかったし大学にいる連中も面白くなかった。何もする気にならないから毎日同じようにボンヤリした顔をしてカウンターでコーヒーを飲んでいたのだ。
「音楽はもうやらないの?」
「いや、またやりたいと思うよ。ただ、今はメンバーの連中も忙しいみたいだから、しばらくしたらまたやると思う。でもその前にベーシストを探さなくちゃならないんだけど。」
「あら、仲良しの長谷部君はどうしちゃったの?」
「いや、長谷部は浪人してるから、合格するまでは音楽はやらないらしい。あいつのベースの音、僕大好きなんだけど、しょうがない。」
「そっか、残念ね。」
みこさんはそう言うとにっこりと微笑んだ。手にしていたグラスのビールをゆっくりと飲み干すと、細くて高そうなライターでタバコに火をつけた。
僕はテーブルの上に置かれている大きくて重い生ビールのピッチャーを持ち、空になったみこさんのグラスにゆっくりと注いだ。静かに注いだつもりだったが、ビールからは勢いよく泡が立ち、あっという間にグラスからあふれ出た。みこさんはあふれる泡を気にもせず、「ありがとう」と言い、タバコを美味しそうに吸いながら微笑んだ。みこさんの笑顔に僕は少し自分の頬が赤くなったのを感じた。僕は手に持ったピッチャーから自分のグラスにビールを勢いよく注いだ。僕のグラスからも同じように大量の泡が白木の上に分厚くニスを塗ったテーブルの上に流れ出していった。白木の分厚いテーブルの表面には、タバコの焼け焦げの黒い跡がいくつも残っていて、透明のビールはその焼け焦げの跡に流れ込み、少しだけ泡を立てた。グラスのビールを流し込むと、生ぬるくて苦味が強かった。僕はそれを一息で胃の中に納めると、小さくため息をつき、タバコに火をつけた。



たっちゃんが僕の方を向いて手招きをしている。もともと大きな目をさらに大きく見開いて僕に向かって「立花、たーちばな、こっち来いよ」と怒鳴っている。肩につきそうな長髪がふわふわと揺れている。
僕は自分のタバコとグラスを持ち、テーブルの反対側へ移動していった。さっき一息に流し込んだビールのせいか、少し胃のあたりが暖かいような気がした。
たっちゃんの席まで行くと、たっちゃんは隣に座っていた高野に向かって「高野、お前ちょっとどいてろ」と言いながら肩を押すようにして無理矢理席を立たせた。高野は「たっちゃん、ひでーよなー」と言いながらもニヤニヤして、舌を出しながら右手の中指を立てる仕草をし、さっきまで僕が座っていた席へと移動していった。たっちゃんも「バーカ」と言うだけで相手にしていない。高野は何事も根に持つようなことはない。怒るときには正面きって怒るし、喜ぶときは遠慮しない。自慢するときには傲慢そのものという感じで自慢をする。時としてその傲慢さが鼻につくことはあるが、みんな高野に対しては遠慮しない。高野もずばずば言われることに不満はないらしく、いつも飄々としていた。僕と高野が仲良くしていられるのも、高野のそんな性格のおかげかも知れない。

たっちゃんの隣に座ると、自分で持ってきた空のグラスの中になみなみとウィスキーを注がれた。サントリーのホワイトだった。僕が呆然と琥珀色の液体に満たされたグラスを見つめていると、たっちゃんが「立花、乾杯しようぜ」と言って僕にグラスを持つように促した。僕もそれまで飲んでいたビールのせいかいつもよりも開放的な気分になっていたようで、逆らうこともせずにグラスを持ち上げ、たっちゃんと乾杯した。僕はそのままグラスを口元に持っていき、3口ほど続けてウィスキーを飲んだ。グラスにはまだ半分以上ホワイトが残っていたが、僕は口元から喉にかけてが焼けるような感覚に襲われて思いきりむせた。僕がむせて咳き込んだのを見てたっちゃんは笑っていたが、それ以上僕に無理に飲ませることはせず、代わりにさっきからたっちゃんの隣に座っていたきれいな女の人を紹介してくれた。
「立花、この娘、直子さん。 直子ちゃん、このデカイのが立花」
たっちゃんはウィスキーが作用して赤くなった顔を僕と直子さんの方を順番に向けながら言った。
「どうも」僕は自分でもなんて無愛想なんだと思うようなぶっきらぼうな挨拶をした。何だか照れ臭かったのだ。
「こんばんは、はじめまして」直子さんはその優しい顔を小さく微笑ませながら細い声で言った。
「直子ちゃんが立花と話したいんだってよ」
たっちゃんはニヤニヤしながらそう言うと、自分のグラスとタバコを持って立ち上がった。「仲良くやれよ」と僕の肩を二回ほどバンバンと叩き、僕がまだ名前を知らない常連の隣に無理矢理割り込んで座った。
「そんなにウィスキーをストレートで飲んで大丈夫なの?」直子さんは覗き込むような視線で僕に尋ねてきた。僕は氷の入っていないグラスをくるくると回しながら視線を落としたままでいた。
「直子さんは何を飲んでるんですか?」
「これ?これは何だっけな、たっちゃんが選んでくれたカクテルよ。名前は忘れちゃったけど、甘くておいしいわよ、ちょっと飲む?」
直子さんはそう言うと僕の前に青い液体が入り、グレープフルーツとチェリーとデンファレの花で飾りがついてストローがささったグラスを差し出した。僕は首を振り、グラスを静かに直子さんの前に戻した。
「甘いお酒ってあんまり好きじゃないんだ」僕がそう言うと、直子さんはちょっと意外というような顔をして、それから一口青いカクテルをストローで飲んだ。
「へええ、クールなんだぁ」
「別にクールでも何でもないですよ。ただ甘いお酒を飲むと変な酔い方をするから」
「どんな酔い方?」
「気分が悪くなったりとか」
直子さんは「ふーん」と声を出さずに唇をすぼめてみせた。両肘をテーブルの上について顎の下で手を組みあわせていた。白くて細い指が絡みあう中に、金色の細い指輪が一つだけ輝いていた。白くて細い指と金色に輝く指輪を見つめていると、次第に後ろめたいような罪悪感に似た感覚が僕に起きはじめた。正面からじっと見てはいけないような、こっそりと他人の秘密を覗いているような、そんな感覚だった。

「立花君て、西麻布に住んでるんでしょ?いいわよね〜」
「いや、別に住んでると、そんなに格別便利でもないし、逆に不便ですよ」
「でもカッコいいじゃない、西麻布なんて、すぐ近くにディスコとかバーとかいっぱいあって、いかにも最先端って感じで」
「いや、でも、毎日飲みに行くわけじゃないし、僕あまり踊りに行ったりとかしないし、うるさいだけですよ」
「そうかなー、うらやましいけどなー」
「いや、でも、そんなもんですよ」
「ねえ、立花君て、車の免許持ってるの?」
「ええ、一応免許だけは。最近殆ど乗ってないですけど」
「車、何に乗ってるの?」
「あ、親のプレリュードです」
「うそー、プレリュードなんだ。あの車いいわよね。ねえ、今度ドライブに連れてってくれない?」
僕はだんだん返事をするのが面倒になってきた。「ええ、こんど」と言いながら高野の方をチラチラと見ていた。高野はポールの肩をバシバシを叩いて大声でなにやら奇声を上げていたが、僕の視線に気付くとビールの入ったグラスを持って僕の方にニヤニヤしながら歩いてきた。
「立花っ、なーに二人でこっそり盛り上がろうとしてるんだよ」
高野はそう言うと両手を僕と直子さんの肩に置き、僕と直子さんの顔を順番に見た。高野の目はビールの酔いで赤く充血し、目の回りはさっきまでよりも一層赤く火照っていて、タヌキのような面持ちだった。 「高野、お前タヌキみたいだよ」
僕がそう言うと高野はゲラゲラと声を上げて笑い、僕と直子さんの間に割り込むように座った。
高野は直子さんの方に向き直って何やら僕の悪口を演出たっぷりに話している。僕がどんなに軽薄でバカで鈍くてどうしようもないかということを、小学校時代からのエピソードを中学校の学芸会のように脚色し、身振り手振りを大げさに交えて説明している。時々僕の方を振り向いては、「なあ、立花」と同意を求めた。僕は「ああ」、とか「うん」、とか答えるたびに、「でしょー、ホントにこいつはどうしようもないんだよ」と、直子さんに思いきり顔を近付けながら力説した。高野が間に座ってくれたおかげで僕はようやく無意味な質問攻めから解放されたので、グラスに残ったウィスキーに氷を入れ、少しずつ飲み始めた。酔った高野が暴れているのを眺めているのはとても楽しかった。丁度テーブルの真中ぐらいに座っていた常連の一人の大学生風の男が「高野、うるせえぞ」と怒鳴り、テーブルの上のおしぼりを高野めがけて投げつけた。おしぼりは空中でふわっと広がりスピードを失って高野のアタマの上に軟着陸した。目の回りを赤くした高野はおしぼりを頭の上に乗せたまま、舌を思いきり突き出し、お得意の中指を立てる仕草をして見せた。テーブル中が笑いに包まれ、僕も思わずつられて笑っていた。

ひとしきり笑いの渦が収まると僕はタバコに火をつけた。ゆっくりと煙を吐き出していると、ポールがニコニコ笑いながら僕の方を見ていた。僕はタバコをくわえたままグラスを持って、最初に自分が座っていた席に戻った。
「立花がばか笑いしてるのって、初めて見たような気がするよ」
ポールが静かな笑みを浮かべたままそう言った。ポールのグラスには氷が溶け掛かったウィスキーの水割りが入っていた。いつの間にかみこさんとポールの席が入れ替わっていて、みこさんは常連の人達と何やら盛り上がっていた。僕はポールと自分のグラスにウィスキーを注ぎ足した。ポールがグラスを掲げて乾杯のポーズをとったので、僕達は再び乾杯した。ポールはウィスキーを一口舐めるように飲むとグラスを置き、「立花、そろそろバンドやろうぜ」と静かに言った。
僕は何か言おうと思ったが、ポールの視線を感じてうまく言葉が出てこなかった。僕は自分のグラスに残っていたウィスキーを一気に飲み干し、熱い息を吐いた。








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