ポールはしばらくの間じっと僕の方を見つめていた。ポールは酒を飲んでも顔に全く出ない。逆に少しずつ血色が失われていき、泥酔すると真っ青になる。今日はまだそんなに飲んでいないせいか、いつも通りの物静かな男という感じだ。
「立花は、この前のメンバーじゃなきゃ嫌なの?」
ポールは左手の中指にしている銀の指輪をくるくると回しながら僕の方を見ていた。僕はウィスキーを一口飲んで、それから灰皿でタバコを消した。
「いや、正直言ってあの時のメンバーをもう一度集めるのは多分無理なんだと思うんだ。長谷部は浪人しちゃってるし、みんな違う大学に行ってるし、なかなか今までみたいにはスタジオにも入れないような気がする。もしすぐに始めるんだったら、メンバーは新しく集めた方がいいんだと思う」
ポールは口元に気弱そうな微笑みを浮かべ、水割りを一口飲んだ。氷が殆ど溶けてしまったグラスはいかにも安っぽくて、表面にはウィスキーメーカーのロゴマークが白くプリントされていた。グラスの縁が小さく欠けていた。
「じゃあ、ベースとドラムは新しく集めなきゃダメだな」ポールがそう言うと僕は静かに頷いた。僕達は黙って、お互いに何かを考えているような顔をして居酒屋の黄ばんだ壁を眺めていた。僕はその時間がちっとも苦痛ではないことが嬉しかった。B.G.M.はさっきからヒューマンリーグに変わっていた。
「立花の友達とかで、誰かいないのか?」
ポールの質問には答えず、僕はウィスキーをまた一口飲んだ。ポールはしばらく僕の顔を見つめていたが、「そうか」と呟いて、自分の水割りに手を伸ばした。ポールがグラスを持ち上げようとするのを制して、隣に座っているみこさんが水割りを作った。みこさんは少し頬が赤くなっている。そういえば僕はみこさんが酒に強いのか弱いのかも知らなかった。みこさんは手際良く水割りをポールの分とみこさんの分作り、僕のグラスに氷とウィスキーを注ぎ足した。
「立花君、あなた顔赤いわよ」みこさんは微笑みながら悪戯そうな顔をした。そうですか、と僕は言ったが、さっきからずいぶんと頬が火照っていて、自分でも赤くなっているのが分かるぐらいだった。
「ポール、ちょっと席替わってくれるかしら。立花君と話がしたいんだけど」
みこさんはそう言い、ポールと席を交代した。みこさんは僕の隣に座り、いつも営業中には見せないような優しい微笑みを僕に向けて見せると、グラスのウィスキーを半分ほど一気に飲み干した。
「ひどいウィスキーね、これ」
「ホワイトですからね。まあ、こんな店ですから仕方ないでしょう」
みこさんは再びにっこりと微笑むと、残りのウィスキーを飲み干し、静かに息を吐いた。僕はみこさんの細い喉がぴくぴくと小さく動き、ウィスキーが下っていく様子をじっと見つめていた。みこさんはひどく美味しそうにウィスキーを飲んでいるような気がした。
「立花君、タバコ一本くれる?」
「あ、セブンスターですけど。強いですよ」
みこさんはふふんと鼻を鳴らし、黙って僕の前にあるセブンスターのソフトパックから細い指でするっと一本だけ抜き取ると、ライターでタバコをあぶった。
「こうするとね、少しだけ軽くなるのよね。ただの気休めかも知れないけど」
10秒ほどタバコをライターであぶってからみこさんはセブンスターに火を点けた。彼女はゆっくりと煙を吸い込み、同じぐらいゆっくりと細く煙を吐き出した。
みこさんのそんな姿をぼんやりと眺めていると、ふいにみこさんがテーブルの下から僕の手を握ってきた。僕は驚いて手を引っ込めようかと思ったのだが、結局はピクリと一瞬手が動いただけだった。みこさんの手は小さくて、そしてひんやりとしていた。僕は力が入り過ぎないように、静かにみこさんの手を握り返した。頬がまた一弾と熱くなるような気がして、僕は自由な右手でウィスキーを二口ほど煽った。
みこさんはじっと僕の目を見つめていた。僕もみこさんの大きな二重の眼を見つめた。みこさんはしばらく僕の顔をじっと見つめていたが、するっと僕の手の中から自分の手を抜き、テーブルの上で両手を組んだ。
「私ね、立花君に、すごく興味があるの」
みこさんは組んだ両手を顎の下に置き、正面を見据えたまま静かに呟いた。僕はじっとみこさんの横顔を見つめていた。肩よりも少し長い黒い髪から小さな耳が見えていた。
「興味があるって、どんな風に?」
僕は自分の声が上ずっているような気がして、慌てて咳払いをした。みこさんは僕の方をみて、またにっこりと微笑んだ。
「うん、ごく個人的に、立花君に興味があるの」
僕は何と言っていいのかさっぱり分からずに、「はい」と答えただけだった。めじりのあたりの血管がさかんにとくとくと音を立てているのが分かった。
「今度またゆっくり話しましょ」みこさんはそう言うと自分のグラスになみなみと水割りを作り、また半分ほど一気に飲み干した。僕は彼女の喉を流れ落ちていく液体の流れを、ぼんやりと見つめていた。



みこさんはそれからしばらくして、今日は疲れたから、と言って先に帰っていった。みこさんが帰り、5分もすると一次会はお開きになった。みんなは二次会に行くようだったが、僕は帰ると言った。高野もさすがに騒ぎ疲れたと言って、僕と二人で集団から別れた。帰り際に直子さんが、「立花君、今度ドライブ、約束だよ」と言っていた。僕は微笑むだけで、何も返事をしなかった。



高野と僕は、ほろ酔い気分で、六本木の交差点をのんびりと渡りながら話をした。高野も僕と二人きりになればもうばか騒ぎはしない、いつもの高野に戻っていた。
「立花さ、お前どうしてもっといろんな人と話ししないんだよ」
高野はタバコの煙を空高く吹き上げるような仕草をしながら僕に言った。
「別に話をするのが嫌な訳じゃないんだ。ただ、あんなにたくさんの人がいたら、誰と話をしていいのか分からないんだよ。一度に全員と話せるわけじゃないし。」
「それにしてもさ、お前ちょっと人見知りしすぎだよ。みんな俺達より年上なんだからさ、ちょっと挨拶ぐらいしとかないと、みんなから嫌われるよ。俺だって別にあんなバカしたくてやってる訳じゃないんだよ、ああやってみんなにかわいがってもらえるようにならなきゃ、お前なんか結構ヤバイんじゃないの」
「高野は昔から友達作るのうまいからな」僕は肩をすぼめるような仕草をして、高野の方を見た。高野はそれにはニヤリとしただけで、何も答えなかった。
「ところでさ、立花、お前さっきずいぶん長い間直子さんと話してたじゃないか。何話してたんだよ」
「話ってほどの話じゃないよ。どこにすんでるとか、なにやってるとか、そんな話だよ」
高野はニヤニヤしていた。「そっかー、うらやましいよな、直子さんに気に入られるなんて。俺なんか、直子さんすっげータイプなんだけどな、全然相手にしてもらえなかったもんな」
「でもお前だってずいぶん親しそうに話してたじゃないか。顔くっつけて。大体高野にはちゃんと彼女がいるんだから、気に入られる必要なんてないんだよ」
僕がそう言うと、高野はいつものように舌を出し、ニヤニヤと笑いながらおどけてみせた。僕も笑った。
高野には不思議な才能がある。特に色男でもないし、学校の勉強は全然できなかったが、何故か高野はいつも女には不自由していなかった。そして高野はいつもちょっと問題のある女の子ばかり好きになるので有名だった。17歳の時に知りあった高野の今の彼女は、いわゆる登校拒否児童で、さらに中学、高校と自閉症で入退院を繰り返していた。高野は彼女を一目で気に入り、猛烈なアタックをかけ、ついに自分のものにしてしまった。最初は当惑していた彼女も、彼の純粋な勢いに押されて、いつの間にか彼の部屋に住み着くようになった。
高野はいつも彼女を自分のオートバイの後ろに乗っけて、そこら中の海や山へと連れていっていた。彼女がみるみる明るくなっていくのを、僕は眩しいものを見るようにいつも見つめていた。彼女は高野と一緒にいると心の底からリラックスしているように見えた。最初高野に紹介されて会った時と比べると、別人のように明るくなっていった。僕が高野に、彼女ずいぶん明るくなったな、と言うと、高野は涼しい顔をして、お前らは頭でなんでも考えちゃうからダメなんだよ、と言わんばかりの調子で「当たり前だよ、俺と付き合ってんだからさ」と言い、舌をぺろりと出した。
僕はそんなことを考えながら、高野と並んで六本木通りの首都高速の下の歩道をゆっくりと歩いていた。さっきよりもだいぶ人どおりが少なくなったようだが、まだまだずいぶん人どおりはあった。
ふいにそのとき、後ろからパタパタという音が聞こえてきた。何か乾いた布にくるんだ金属を規則的にアスファルトにぶつけているような、軽くて乾いた音だった。その音は首都高速を轟音と共に走り去る車の騒音や歩道沿いの店から流れ出る音楽等に紛れていたが、徐々に僕の方へと近づいているような気がした。
パタパタパタという音が、スニーカーを履いた人間が走ってくる音だ、と僕は気付いた。誰かが僕達の方に走ってくる。それも猛烈な勢いで走ってくる。僕は音の方へ首を回して振り向いた。
僕が振り向くのとほぼ同時に、僕の背中から左肩にかけて激痛が走った。僕は自分の目の前に人間の体が浮いているのを見た。黒いタートルネックにブルージーンズの男の右膝が僕の背中に突き刺さっていた。自分の体がバランス崩してアスファルトの歩道の上に叩き付けられ、側頭部が鈍い音を立てて歩道に直撃した。すべてがスローモーションのようにゆっくりとしていた。歩道を照らす、水銀灯と、排気ガスでどす黒く汚れた首都高速の高架が視界に見えた。僕が倒れると、走ってきた男は僕の顎を右足で思いきり蹴った。
よけなきゃ、と思った瞬間に、顎の辺りに鈍痛が走った。頭と脳みそがガクンと揺れるような気がした。そして僕の視界は真っ暗になった。意識を失う直前に、男が何か叫んだのが聞こえた。








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