僕の意識は得体の知れないぶわぶわした膜のようなものに包まれて暗闇の中を漂っていた。僕は熱さも寒さも感じることのない完璧な無意識の中にぽつりと浮かんでいた。光も音もない空間で僕は心地よい眠りを貪っていた。その眠りは永遠に続くもののように静かに、そして豊かに流れていた。僕は自分の意識が眠る暗闇の中を眺めていた。眠り続ける僕を見つめている僕が一体誰でどこにいるのか、そんなことはもはやどうでも良いことのように全てが静かで安らかだった。しかし、やがて僕はその「音」の存在に気付いた。今までに一度も聞いたことのないような音だ。無意識の中で僕はその音を呆然と聞いていた。始めは微かに聞こえたその「音」は、次第に大きくなり、やがて僕を包んでいる無意識の膜を揺さぶるような巨大な音になった。細かい音の流れが幾重にも複雑に絡みあい、一つの巨大な「音」を作りだしていた。音の流れは僕を捉え、包み込み、そして眠っている僕の体にとどまった。僕の体は小刻みに震え始め、体中から汗が噴き出した。巨大な音は一定の間隔で僕の体を揺さぶり続け、僕はその奥から誰かが僕の名前を呼び続けているのを聞いた。眠り続ける僕の姿が細かく分断され、僕を眺めているもう一人の僕の視界が眩しく輝いた。僕の中の暗闇が粉々に弾け飛ぶように視界が光で溢れる中で、誰かが僕の名前を呼び続けていた。僕は歯を食いしばった。全身が引きちぎられるような痛みが僕を襲い、僕は生まれたばかりの赤ん坊のような叫び声を上げ、大きく両眼を見開いた。
「立花、しっかりしろ」
高野が僕の両肩を揺さぶるようにして僕の名前を呼び続けていた。高野の唇はたてにざっくりと切れ、そこから赤い血がポタポタと僕のシャツの上に垂れていた。僕の両眼からは距離感が消え去り、高野の姿と首都高速の高架が平板のように重なって見えていた。
「立花、大丈夫か」
高野は僕の耳元で叫んだ。僕はしばらく何のことだかさっぱり分からずに、高野の顔を呆然と眺めていた。おい、しっかりしろ、と高野が僕の体を強く揺さぶった時に、背中と顎に激痛が走った。その激痛は僕の意識を現実へと一気に引き戻した。僕の視界は一気に開け、走り去る車の排気音や人々の喧騒が耳に飛び込んできた。その瞬間に僕は激しい吐き気を催したが、必死でそれを堪えた。
僕は上半身を起こして周囲を見渡してみた。高野はまだ僕の目の前で僕の両肩をがっしりと掴んでいた。良く見ると高野は唇以外にも腕に何かでこすったような擦り傷を作っていたし、彼の左目は青黒く腫れていた。僕が上体を起こすと、高野は小さく頷き、僕に背中を向けて走っていった。僕は高野の姿を眼で追った。4人ぐらいの男達が殴り合いをしていた。高野もそこに加わった。僕はまだ痺れたような感覚が残る後頭部を抑えながらじっと目を凝らして彼らの姿を見つめた。良く見ると、殴り合いは4対1で行なわれており、4人の中にはたっちゃんと高野と、いつもの常連が2人いた。1人で4人に闘いを挑んでいる男は、僕が倒れる直前に見た黒のタートルにブルージーンズの男だった。僕はその男に見覚えがあった。その男はさっきまで一緒に飲んでいた常連の中の一人だ。彼は泥酔しているのか、もしくはひどく錯乱しているらしく、訳の分からないことを物凄い金切り声で叫びながら、周囲を取り囲んでいる4人をメチャメチャに殴り付けようともがいていた。たっちゃんが彼を押さえ付けるように体当たりを喰らわせ、そこに常連達が乗っかるようにして黒タートルの男を道路に倒した。高野が黒タートルに馬乗りになり、顔を思い切り殴り付けた。たっちゃん達が黒タートルの体をしっかりと押さえ付けた。高野が黒タートルの顔をもう一発思い切り殴り付けた。黒タートルはぐったりとして、体の力を抜いたようだ。そのまま4人は10秒ぐらいじっとしていたが、やがて静かに立ち上がり、4人で黒タートルの男を歩道の端へと運んだ。黒タートルは気を失ってはいないようだったが、体中の力が抜けてしまった抜け殻のようにぐったりとしていた。高野は切れた唇を舐め、血の混じった唾をアスファルトの上に吐き出した。僕達の周りには幾重にも野次馬が集まり、好き勝手にしゃべったり笑ったり何やら叫んだりしていた。僕はようやく自分が歩道の端に倒れているということをはっきりと認識した。背中と顎がひどく痛んだ。
結局僕が意識を失っていたのは、30秒かそこらだったらしい。
たっちゃんは僕と高野を自分の店に連れていき、カウンターに並べて座らせた。残りの常連2人が黒タートルを抱きかかえるようにしてどこかへ連れていった。僕達はたっちゃんの店で傷の応急手当をしてもらった。たっちゃんはまるで女の子のような繊細な手さばきで、高野の傷の手当てをした。僕は外傷はなかったが、背中がずきずき痛んだので、湿布を貼ってもらい、包帯でぐるぐる巻きにされた。顎を蹴り上げられたせいで口の中がずたずたに切れていたが、治療のしようがないし、もう血は止まっていたようなので放っておいた。
「たっちゃん、手当てすごい上手だね」高野は腫れた唇で言った。
「おお、ずっとボーイスカウトにいたからな、こういうのは慣れてんだよ」
たっちゃんは僕らの手当てを終えるとカウンターの中に入り、缶ビールを3本出してきた。たっちゃんも殴り合いに加わっていたはずなのに、彼はかすり傷ひとつ負っていなかった。僕達は黙って乾杯し、ビールを一口ずつ飲み、それぞれタバコに火をつけた。口の中の切れたところにビールがひどくしみたが、それでもビールはうまかった。
しばらくは3人とも黙っていた。たっちゃんは半分降ろされたシャッターの向こう側を走り去る車のヘッドライトをぼんやりと眺めていた。高野も呆然と壁にかかったレコードジャケットを見つめていた。
「あいつさあ、立花に嫉妬してたんだよ」
たっちゃんが静かに言った。僕は何のことだかさっぱり分からなかったので、たっちゃんの顔をじっと見つめた。
「あいつ、直子ちゃんに惚れてんだよ。だから立花に嫉妬したんだよ」
「悪いんだけど、僕には全然何のことだか分からないよ」僕は言った。
たっちゃんは口元を曲げて微笑むと、静かに黒タートルの男について説明してくれた。彼はある有名進高校生だった頃に直子さんと知り合い、それ以来ずっと片思いを続けている、常連のみんなは直子さん本人を含めてほぼ全員が黒タートルが直子さんに想いを寄せていることを知っている、黒タートルは現在二浪中であり、大学に合格したら直子さんに告白しようと決めている。黒タートルはひどく酒癖が悪く、一定量以上の酒を飲むと突然猛烈に暴力的になり、誰にでも殴りかかる癖がある、特に最近は浪人生活のストレスのせいか、ふさぎ込みがちで、酔ったときに暴力がひどくなっている、そんな感じだ。
「だから立花に嫉妬したんだよ」たっちゃんは缶ビールをまた一口飲んで、僕に言った。
「でも、今日直子さんと話してたのは僕だけじゃないでしょう。高野だってずっと話してたし、僕なんかほんの4、5分ぐらい話してただけなのに、どうしてそんなに嫉妬されるんだろう。だいたい僕が直子さんと話をしたからって、何がどうなる訳でもないのに」
「立花は分かってないんだよ」高野が横やりを入れた。僕は高野の方を見た。高野は腫れた眼をこするような仕草をしながら僕の方をまっすぐに見ていた。
「さっきも言っただろう、立花は人見知りが激しすぎるんだよ、しかも端から見てるとそれが人見知りしてるように見えないんだよ」
「分からないな。じゃあどういう風に見えるんだ」僕は高野に尋ねた。
「知らない人から見ると、お前は人見知りしてるようには見えないんだ、お前は相手を見下しているように見えるんだよ、相手にしてないように見えるんだ。ただでさえお前は背も高いしスタイルもいいから目立つんだよ、で、年上の連中で浪人なんかしてる奴等から見たら、挨拶もなしで突然やってきた生意気な年下の大学生に見下されたって思うんだよ、俺がいつも言ってるのはそこなんだよ」
高野は言葉を切って僕が何か言うのを待っているようだったが、僕は黙っていた。高野は続けた。
「俺は立花のことを良く知ってる、小学校時代からお前のことを見てる。お前は優しいしイイ奴だ、俺よりもずっとアタマもいいし顔だって俺よりずっといい。だけどな、お前は特定の人間にだけ猛烈に優しい代わりに、その他大勢の人間に対しては物凄く冷たいんだよ、お前は自分のことしか考えてない、自分の世界の中しか見ていない、お前は毎日あたりまえのように生活しながら、どんどん他人を傷つけながらしか生きていくことができないんだ。しかも他人が傷ついていることに全然気付かないで、自分の都合のいいように解釈してどんどん置き去りにして自分だけの力で生きてるような涼しい顔をしてる。お前のその冷たさが俺は時々我慢できなくなることがあるんだ、お前は無意識のうちにたくさんの人を傷つけている、俺はお前がどれだけたくさんの人を不快な気持ちにして、傷つけてきたか散々見てきたんだ。お前がもう少し優しくしてやれば純子だってあんなことには.....」
高野はそこまで言うと言葉を呑込むように押し黙った。僕は高野のことをじっと見つめていたが、高野はばつが悪そうな顔をしてうつむき、ビールを一口飲んだ。店の中は静まりかえっていた。たっちゃんは窓の外を眺めていた。結局僕達はそれからずっと黙ったままビールを飲み、タバコを吸った。時計を見ると12時を過ぎていた。たっちゃんは空になったビールの缶をかたづけ、灰皿を手際良く片付けた。僕達は店の前で別れた。別れ際にたっちゃんが僕に言った。
「立花、次にあいつと顔を合わせたら、あいつのこと許してやれよ」
僕は黙っていた。
「あいつは普段はすごくいい奴だからさ」
たっちゃんは僕の肩をポンと叩いた。さっき蹴り上げられた背中がずきんと痛んだ。たっちゃんは手を上げてタクシーを止め、軽快に乗り込んだ。たっちゃんを乗せたタクシーを僕と高野は黙って見送った。
僕と高野は二人で黙ったまま歩いていた。高野の家の前までくると、高野はようやく口を開いた。
「さっきは言い過ぎた。ごめん」
「いいよ、別に気にしてない」
「でもな、一つだけ文句言ってもいいか」
「いいよ、何でも言いなよ」
「今日の俺は完全に殴られ損だ。あいつは立花を殴りにきたのに、お前がさっさと気を失ってしまうから俺が相手することになった。たっちゃん達が来るまでの間、俺がお前がひっくり返ってる側であの酔っ払いと殴り合ってたんだ、礼の一言ぐらいあってもいいんじゃないのか」
高野は両手をポケットに突っ込んだままニヤニヤしながら立っていた。
「ひどい顔だ」僕は笑いながら言った。
「お前よりはいくらかマシだよ」高野は笑いながら僕の顔を殴るマネをした。
「じゃあな、おやすみ」高野はくるりと後ろを向き、エレベータホールへと消えていった。僕は高野の後ろ姿をしばらく眺めていた。僕は信号を渡って自分の家へ帰った。家には誰もいないようだった。部屋のドアを開けると僕は崩れるようにベッドの上に寝転んだ。鈍い痛みが全身を覆った。僕はしばらく眼を閉じたまま今日一日のできごとを思い返そうと努力してみたが、彩子の顔だけはやはりどうしても思い出すことができなかった。
僕はしばらく彩子の顔を思い出そうとしていたがやがてみこさんの言葉を思い出した。僕に興味がある、という言葉を暫くぐるぐる口の中で呟いていると、さっきの高野の言葉がふと浮かんできた。僕は高野に言われたことについて考えてみようと思ったが、すでに頭は重く、ちっとも考えることができなかった。僕はベッドの上で体の力を抜いた。静かな眠りが僕を捉え始めたとき、あのセーラー服姿の女の子の姿が目の前に現れた。
「みんなあんたのせいなんだからね」彼女は夕焼けに包まれ美しかった。
「そうだ、みんな僕のせいだ」
僕は口に出してそう呟くと、眠りの中に体を預けた。それは泥のように深く、そして長い眠りだった。
(c) GG / Takeshi Tachibana
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