僕は大学に着くとまっすぐに講義が行なわれている教室へと向かった。階段教室の中は閑散としていた。僕は窓際の後ろの方の席に座り、辺りをぐるりと見回してみたが、知った顔は一つもなかった。やがて授業が始まると、僕は頬杖をついてずっと窓の外を眺めていた。僕は今自分が座っている場所がひどくばかげているような気がして仕方がなかった。僕は天気の良い春の日に日当りの良い階段教室で日向ぼっこをするために大学に入ったのだろうかと思うと、すべてのものがなんだかひどく安っぽく、ばかばかしくなった。そんなことをぼんやりと考えていてさっきからちっとも講義を聴こうとしない自分にも腹がたってきた。全身から奇妙な熱気が沸き上がってきたが、その熱をぶつける相手がないことに気付くと僕は少しだけがっかりして、指先でエンピツをぐるぐる回してみたり、ノートに落書きをしてみたりしていたが、それにも飽きると僕は机の上に突っ伏して眠ってしまった。
物音に気付いて目を覚ますと、講師が黒板を消していて、学生達は立ち上がりがやがやと教室から出ていっていた。僕は落書きをしたノートのページを破ると、丸めて机の上に放り投げた。そして僕も教室から出た。
僕はキャンパスの中をあてもなく歩き回った。テニスラケットやラクロスのラケットを大事そうに抱えた女の子達とすれ違った。彼女達の短いスカートがひらひらと風に揺れていた。正門の近くでは白いヘルメットを被った連中が、何やら拡声器で怒鳴り続けていた。狭いキャンパスの中央では応援団の連中が黒い学生服に黒い革靴姿で大声で校歌の練習をしていた。僕は校舎の中に入り地下に降りて学食に入ったが、天井付近にもうもうと立ち篭めるタバコの煙に嫌気がさして再び地上に上がり、売店で缶コーヒー買うと中庭のベンチに腰掛けた。
僕は中庭のベンチで缶コーヒーを飲んで、タバコを一本吸った。和風の庭園をモチーフにしたような感じの、何とも奇妙な中庭だった。池があって鯉が泳いでいたが、そんなことは誰も気にしていないようだったし、そこに池がある必要もまるでないように僕には思えた。中庭には僕の他にもたくさん学生がいたが、一人で座っているのは僕ぐらいで、みんなグループ毎にかたまって、何やら甲高い声でわめいたり走り回ったりしていた。スズメが何羽かやってきて、中庭の隅のコンクリートの上を物欲しそうにうろうろしていた。スズメは学生が通り掛かると一斉に飛び立ち、彼らが通り過ぎるとまたすぐに戻ってきては、何やら物欲しそうにあたりをうろついていた。おそらく誰かが餌をくれるのを期待しているのだろう。僕は何かやりたかったが、缶コーヒーとタバコ以外には何も持っていなかった。僕は大きくあくびをすると、空になった缶をごみ箱に投げ込んで立ち上がった。エレベーターに乗って7階に上がると、さっきと似たような景色の階段教室に入りさっきと似たような場所に座った。教室の中はさっきと同じように閑散としていた。さっきと似たような講義が始まると僕はさっきと同じように机に突っ伏して眠った。
そんな風に講義に3つ出て僕の今日の授業は終わった。知っている顔は一つも見なかった。校門を出て地下鉄の駅に向かっていると、僕の前を何やら長い行列が遮った。学生がわいわいと喋りながらどこかへと向かっていた。僕は連中をつっきって反対側に渡った。その時僕の背後から僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り向くとそこにあは僕のクラスの男が、行列の中から僕に向かって手を振っていた。僕は彼の名前を憶えていなかった。
「なんだ、立花、帰るのか」彼はにこやかに尋ねた。彼は行列の中にいて、のろのろと歩いていた。
「うん、もう授業終わったし」
「立花も一緒に行かないか」
「どこに?」
「新歓コンパ」
「だって、これってサークルの新歓コンパだろ」
「そうだよ、でもこんなに何十人もいるんだから、一人ぐらいまぎれたって分かりゃしないよ。どうせ暇なんだろ」
「それにしても、これって何のサークルなの?」
「テニス、スキー、ボウリング、飲み、何でもありの、いわゆる軟派シーズンスポーツサークルって奴だな。この後どっかの女子大の連中とも合流するらしいからさ、来いよ、立花も」僕は頷くと彼の隣を歩き始めた。僕はテニスもスキーもボウリングも女子大も全然興味なかったし、サークル活動というもの自体を蔑視していたのだが、昼からずっと心の中に溜まっていた熱を発散する方法がなくて何となく苛々していたので、このまま家に帰りたくなかった。僕は歩きながら彼の名前を思い出そうと努力したが結局思い出せなかった。
新歓コンパは渋谷の居酒屋で盛大に行なわれた。僕は全然知らない連中と酒を飲みやたらと話しかけられ適当に相槌を打ち、女の子と少しだけ話をした。僕は安くてまずい水割りをごくごくと流し込むように飲み続けたが、ちっとも酔わなかった。
一次会がお開きになって近くの別の居酒屋に移動して、宴会は続いた。僕は相変わらず安くてまずいウィスキーの水割りを猛烈な勢いで飲んでいた。半分以上の人達が帰った後でも、まだ30人以上の人が残っていて、一体誰と話をして、誰とまだ話をしていないのかさっぱり分からなかったし、大体誰が新入生で誰が先輩なのかもさっぱり分からなかった。僕は隅っこのテーブルに座って黙々とウィスキーを飲んでいた。僕の隣に細長くてゴツゴツした顔の男が座って、お前は新入生か、と尋ねるので、そうだ、と答えると、プラスチックのサラダボウルを僕の前に差し出した。中にはドレッシングの色が真っ赤になるほどタバスコが入れられていた。新入生はコレを食え、とその男が言った。僕のテーブルに一緒に座っていた女の子達がおっかなびっくり箸で突っついて一口舐めてはきゃーきゃー歓声を上げていた。
男のにきびの跡でごつごつした顔の細くつり上がった目を見ているうちに、僕の中に溜まっていた熱が憎悪という形を帯びて急に喉元まで上がってきた。どうして僕はこんな醜くてアホ面の見ず知らずの男に命令されているんだ。ドウシテボクハコノオトコニメイレイサレナクテハナラナインダ
僕は箸をとって大きなサラダボウルにたっぷり入ったタバスコサラダを黙々と食べ続けた。昨日の傷にタバスコが遠慮なく入り込んできて、涙が出るほど染みたが、僕は顔色一つ変えずに3人前は軽くあったタバスコサラダをあっという間に平らげると、空になったサラダボウルをにきび面の男の前にどんっ、と音を立てるように置いた。同じテーブルの女の子達は歓声と慟哭の中間のような声を上げていた。にきび男は大声で、おい、こいつすげえ変な奴だぞ、と、遠くのテーブルの誰かに向かって怒鳴っていた。男のでこぼこの顔は笑っていた。僕は黙ってウィスキーを飲んでいた。僕は無性に腹が立っていたが、それ以上にそのにきび面の男に失望していた。この男は僕がケンカを売っているのにそれをまるで受けようとしなかった。僕はお前に反抗しているのに、どうしてお前はにこにこ笑いながら喜んでいるんだ。そう思うと僕は何だか急にばかばかしくなった。やっぱり僕はテニスもスキーもボウリングも飲み会もなんちゃら女子大も楽しいサークルも輪になって青春もそんなものはどうでもいいということを実感すると、急に寒々しい気分になってきた。
結局僕はその店で3人前のタバスコサラダを食べ、20杯の安くてまずいウィスキーの水割りを飲み、誰とも仲良くならず、誰もナンパせずに帰ってきた。僕が席を立った頃には、それぞれのテーブルで酔っ払いの即席カップルが誕生しようとしていた。泥酔してソファーの上で眠ってしまっている男もいたし、トイレまで我慢できずに吐いている奴もいた。僕はテーブルの上にそっと千円札を3枚置くと、黙って荷物を持って外に出た。ひんやりとした外気に触れると僕は幾分ほっとしたような気がした。店の外にはさっきまで一緒のテーブルに座っていた女の子が、僕を誘った男とガードレールに座ってキスをしていた。
僕は渋谷から西麻布まで早足で歩いて帰った。僕は無性に腹が立っていた。ただ、自分が腹を立てている相手が何なのかが分からなかった。体の中に溜まっているエネルギーを出さないことには爆発してしまいそうだった。僕は歩道の隅に置かれていたプラスチックのゴミ箱を思い切り蹴り上げたが、中にたっぷりと生ゴミを詰め込まれたゴミ箱は鈍い音を立てて倒れただけだった。昨日黒タートルの男に蹴られた背中がひどく痛んだ。僕は一人で高速の高架下を歩きながら、訳もなく溢れ出ようとする涙を必死にこらえていた。
(c) GG / Takeshi Tachibana
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