新歓コンパの翌日から、僕はその週の授業を休んだ。体の具合が悪かった訳でも、黒タートルの男に蹴られた傷が痛んだ訳でもないのだが、とにかく大学に近づきたくなかった。僕は昼近くまで眠り、シャワーを浴びて歯を磨くと、鞄の中にゲーテの「若きウェルテルの悩み」とノートを突っ込むと、毎日あてもなくあちこち歩き回った。僕は歩き疲れるまでデタラメに歩き回り、目についた喫茶店に入ってコーヒーを飲み、タバコを吸った。コーヒーを飲み終わると僕は思い付いたことを適当に大学ノートに殴り書きし、それに飽きるとゲーテを読んだ。喫茶店を出るとまたあちこち街を歩き回り、日が暮れるころに家に帰ってきた。家に帰ってくると僕は部屋でビールを飲み、意味もなくぼんやりとテレビを眺め、それにも飽きるとステレオで音楽を掛け、タバコを吸った。テレビも音楽も何も僕に訴えかけてこなかった。僕は自分の体の中に灯ったまま行き場の見つからない熱をどう処理して良いのか分からずに、一人で殻に篭っていた。

僕はベッドに寝転んだまま、大学のキャンパスのことを思い出した。強烈なエネルギーを発散し続ける若い凡庸さがキャンパスには溢れていた。同じような格好をした同じような顔の学生達の発散する強い体臭がキャンパスを支配し、テニスラケットやスキー板や軟派サークルが出来合いの安っぽい青春をバーゲンセールのワゴンのように何種類かずつ大量に陳列し、学生達は行儀よく順番に列を作り、ワゴンに並んだ青春の中から一つを選び出し大切そうに受け取ると、満足そうに微笑んだまま、みんなで輪になって踊り始める。輪の中には古びれた友情や規律や愛情が、先輩から受け継がれた神具のように祭壇に祭り上げられ、学生達はそれをまるで神体拝受の儀式を受けるかのように厳粛に受け入れ、彼らの輪はウミガメのように固い殻を外側に纏い、外部からの侵入をかたくなに拒むのだ。

僕はベッドの上で身震いをした。僕は自分が大学に所属する必然性というものがさっぱり理解できなくなっていた。いろいろなものが僕のまわりをぐるぐると勝手に走り回り、僕は何一つ正確に認識することのないまま、大学という巨大な組織に呑込まれてしまうのだろうかと考えると、僕は急に腹が立ってきた。何に対して自分が腹を立てているのかを認識することはできず、ただ漠然と大学やキャンパスを右往左往する学生達や、ぼんやりした顔をした教授連中や、まずくてタバコの煙が充満している学食や、そんなものに対して片っ端から腹を立てた。僕は拳を固めて、枕を何度か思い切り殴り付け、そしてその後で口に出して「このバカタレが」と呟いた。言葉に出すことで喉元まできていた僕の熱はぱっと体中に散り散りになり、呼吸が楽になった。僕は何度か深呼吸をした。体がひどくだるかった。僕は「やれやれ」と独り言を呟き、部屋の灯を消してベッドに潜り込んだ。あっという間に平板な鉛のような眠りがやってきて、僕の意識のスイッチをパチンと音をたてて切断した。



翌朝目が覚めると、妙に体が軽く、気分もすっきりとしていた。ブラインドを開けると外は抜けるような青空で、さらに時計を見るとまだ6時過ぎだった。ラジオをつけるとFMからビーチ・ボーイズが流れてきた。誰かに罠に嵌められているかのような完璧な目覚めだった。僕は睡眠と覚醒の縁を行ったり来たりすることもなく、昨夜眠った時と同じように突然目覚めた。僕の意識の中には睡眠の残骸は微塵も残ることなく、目覚めた瞬間から僕は覚醒の中心に位置していた。僕は両手を上げて体を思い切り伸ばすと、吸い込まれるような青空に向かって大きく窓を開いた。ひんやりとした春の空気が静かに部屋の中に入り込んできて、僕の部屋の澱んだ空気を運び出してくれるようだった。僕は久し振りに地上に出てきた坑夫のような気分だった。朝の冷気は僕の中に溜まっている熱を全部吸い取って持っていってくれるような気がした。
僕はシャワーを浴びて歯を磨き、丁寧に髭を剃った。一週間振りに髭を剃った顔を鏡で眺めると、自分の顔が妙に子供っぽく見えた。僕は鏡に向かって2回ほど微笑んでみた。鏡の中の自分も僕に向かって2回ほど微笑んでいた。不器用な微笑みだったが、それなりに好感の持てる笑顔だった。僕は気分が良かった。
僕は台所でコーヒーを作り、トーストとサラダで簡単に朝食を済ませた。コーヒーは近来ない完璧なできだった。僕は時間をかけてゆっくりとコーヒーを飲み、食後にタバコを一本吸った。それでも時計はまだ7時半だった。家族はまだみんな眠っているようだった。僕は食器を洗うと部屋に戻り、鞄の中から大学の講義概要と時間割を引っ張り出した。そして僕は部屋の白い壁にぶら下がったJALのカレンダーを眺めた。1988年4月11日。僕は講義概要と時間割を鞄に押し込み家を出た。外にはまだ淡い朝の匂いが残っていた。



僕は地下鉄に乗らずに、信濃町まで歩いた。青山墓地沿いの桜並木は花弁が殆ど落ちて、鮮やかな緑の新芽が一斉にふきだしていた。黒いアスファルトの上には、まだ大量の桜の花びらが落ちていた。風が吹くたびに花びらが舞い上がり、車道の隅の方に固まって溜まっていた。

僕は青山一丁目を通り過ぎ、権田原の交差点に向かって歩いた。中学生達が何人も僕の後ろから走ってきて、僕を追い抜いていった。まだ声変りしていない男の子達の甲高い声が響き渡った。何人かの男の子が、一人の女の子のことをからかっているようで、女の子は大声で男の子達に罵声を浴びせていた。東宮御所の石垣の上には、こんもりとした常緑樹の間に、監視用のカメラが僕のことを睨みつけていた。時折風が吹くたびに東宮御所の高い石垣の中から桜の花びらが降ってきた。風はもう冷たさを失いつつあった。春にしては鋭すぎるほど鮮やかだった青空も、太陽が昇るにつれ徐々にその鋭敏さを失い、いつものぼんやりとした色へと変色しはじめていた。僕はくすんでいく空を見上げ、少しだけ残念に思った。



信濃町から満員の電車に乗り、僕は大学へと向かった。駅を降りると僕は駅をぐるりと見回した。何カ月ぶりかでやってきた土地のように、駅は妙によそよそしかった。僕は自分が間違った場所にいる間違った人間のように思えて仕方がなかった。スーツ姿にネクタイを締めたサラリーマン達がひっきりなしに改札を抜け、駅前の交差点を四方八方に散り散りに歩き去っていった。彼らはうつむいたり前を向いたり、タバコを吸ったりしていたが、どの顔も僕には同じように見えた。

朝の新鮮な雰囲気はすっかり失われ、僕の体は再び重く、そして体内の熱は再び行き場を失い、澱んだ血液の中を行ったりきたりしているようだった。僕はため息をつき、諦めるように首を振ると大学に向かって歩き始めた。

まだ一限が始まるまで30分以上あるせいか、大学の構内は閑散としていて、サークルの勧誘員も応援団員も、中核派の白いヘルメット姿の連中もいなかった。空手着を着込んだ男達が10人ほどでキャンパスの中をランニングしていた。僕は8号館をつっきるようにして売店に行き、暖かい缶コーヒーと菓子パンを一つ買った。まだ人がほとんどいない学生会館を抜けて中庭に出ると、春の陽射しが中庭を静かに照らしていた。僕はベンチに腰を降ろした。中庭にはまだ僕以外誰もいなかった。
僕は缶コーヒーを開け、一口飲んだ。昨夜一晩じっくりと暖められていたせいか、缶はやけどをしそうなほど熱く、僕は缶をハンカチでくるんでいなければならなかった。砂糖とミルクが過剰に投入された缶コーヒーは、ゆっくりと僕の喉元を胃の方向へと降りていき、僕の胃の中を静かに暖めた。僕は少しリラックスした気分になった。いつものように威圧的な学生達の群れは、まだベッドの中で眠っているのか、徹夜で飲んでどこかの公園でたむろしているのか、クラブの合宿で遠出しているのか、いずれにしても今現在大学には来ていなかった。微かに鮮やかさの残る春の朝日を穏やかに浴びて、決して広いとは言えない中庭の隅のベンチに腰掛けていると、ここが大学であるということを忘れてしまいそうだった。
僕は缶コーヒーをベンチに置くと、タバコを一本吸った。風がほとんどないせいで、タバコの煙は愛想のないコンクリートの校舎沿いにまっすぐと昇っていった。僕はベンチの横の鉄製の長い足のついた灰皿でタバコを消した。灰皿の中にはまだ吸い殻は一つもなかった。いつもだと灰皿の中には空き缶やらパンのビニールやらスポーツ新聞やらがデタラメに放り込まれていて、非常に不快なのだが、こうして掃除したての灰皿でタバコをもみ消すと、僕がここにいることがひどく自然なことのような気がしてきた。僕はそのことに意味もなく満足すると、菓子パンのビニールを破いてパンをひっぱり出し、それを細かく千切って中庭に向かって放り投げた。
何羽かのスズメが校舎の二階のひさしから飛び降りてきて、パンに群がった。スズメ達は細いくちばしで器用にパンの切れ端をつまむと、一、二度ぴょんぴょんと飛び跳ね、そのままつまんでいたパンを一気に呑込んだ。しばらくするとスズメの数は6、7羽に増え、彼らはあっという間に僕が放り投げたパン屑を食べ尽してしまった。僕はさらにパンを千切り、さきほどよりは少し大きめの塊をいくつか中庭のスズメ達の中心に向かって投げた。スズメ達は一瞬散り散りに逃げるように四方に飛び跳ねたが、パンが投げ込まれたことに気付くと一斉にUターンしてパンに群がった。スズメ達がパン屑を奪い合うようについばんでいるのを、僕はぼんやりと眺めていた。パンがなくなるまで、僕は5、6回同じようにスズメ達に向かってパンを投げ続けた。僕が菓子パン一個分のパン屑を全部放り投げてしまってからも、スズメ達は名残惜しそうにパンが投げられた辺りをうろうろしていたが、やがて2人連れの学生が中庭に入ってきたので、一斉に飛び立ち、校舎の2階の庇の陰に隠れてしまい、降りてこなかった。

僕は手についたパン屑をはたき、ズボンもはたいた。それから僕はもう一本タバコを吸い、コーヒーの残りを飲んだ。入ってきた時よりも大分学生の数が増えてきたようだったが、それでもまだ僕が登録している授業までは1時間半以上あった。僕はしばらく思案した結果、このまま中庭でぼんやりと過ごすことに決め、鞄の中からゲーテの文庫本を引っ張り出して読み始めた。2、3ページ読み、ストーリーに集中し始めたところで、僕は人の気配を感じて本から顔を上げた。僕の目の前に彩子が一人で立っていた。
「よっ」彩子はにこりともせずに静かに言った。彼女は黒のニットのセーターに、濃いジーンズを履いていた。彼女の栗色の髪が春の朝日を浴びてきらきらと輝いていた。
「おはよう」僕は文庫を閉じて答えた。一限が始まるチャイムがキャンパス中に鈍く響いていた。





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