「隣、座ってもいいかな」彩子は表情を崩さず、静かに言った。彼女の声はこの前授業で聴いた囁き声とはずいぶん印象が違い、か細く低く嗄れたような、不思議な音色を醸し出していた。
「うん、どうぞ」僕はベンチの真中に置いてあった僕の鞄を自分の側に寄せながら言った。彩子は初めて微笑んだ。
「随分早いじゃない。まだ授業まで一時間以上あるよ」僕は彩子の横顔を見つめながら言った。彼女は自分の鞄のポケットからメンソールのタバコとライターを取り出し、一本口にくわえたまま小さく頷き、銀色の細長いライターで火をつけた。彼女は大きな目を細め、か細く煙を吐き出した。彩子の細くて白い指の動きにはまるで無駄がなく、まるでメンソールのタバコのCMを眺めているようだった。僕はこんなに優雅にタバコを吸う女の子を初めて見た。
「間違えちゃったんだよ、時間割。大慌てで出てきたらさ、一限じゃなかったんだよね」彩子は言った。
「でもそう言う立花君だってずいぶん早いじゃない。やっぱり時間割間違えたの?」彩子は口元を歪めるように小さく微笑んだ。彼女の微笑みは顔全体を崩すような無防備なものではなく、相手の次の言動を待ち構えるような、どこかしら緊張感のある微笑みだった。彼女の白くて小さな耳たぶには、銀色の小さなピアスが光っていた。
「いや、何故だかすごく朝早く目が覚めちゃってさ。家でぼんやりしてるのも勿体ないから出てきたんだけど」
「でも、学校のベンチでぼんやりしてるんだったら結局同じことじゃない」彩子はそう言うと口から細く煙を吐き出した。
「まあそうだね」僕はそう答えると、自分のタバコに火をつけた。
「ねえ、何の本読んでたの?」
「ゲーテの『若きウェルテルの悩み』」
「ふーん、面白いの?」
「いや、面白いとか面白くないとか言う種類のものじゃないんだけど」
彩子はタバコをくわえたまま僕の顔を眺めていたが、口の隅を曲げるように微笑んだ。僕はその微笑みに好感をもった。彼女の顔からは大量生産のテニスラケットやスキー板を詰め込まれたサークル仲間の純愛崇拝宗教のような匂いが感じられなかった。
「ねえ、きみは何かサークルに入ってるの?」僕は試しに尋ねてみた。
「私が?」彩子は驚いたような顔を一瞬見せ、しばらく思案気にうつむいていた。「うーん、一応あちこち覗いてみたんだけどさ、あんまり面白そうなのがないから結局どこにも入らなかったよ。立花君は?」
「僕なんか、どこも覗くこともしなかった。どこのサークルだか分からないところの新歓コンパに出て、タバスコ入りのサラダを食べて帰ってきただけ」
「なによ、それ。全然意味ないじゃない、そんなの」
「そうなんだ。何にも意味がないんだ」そうだ、僕はいつも意味がないことばかりしている。
「でも立花君、バンドか何かやってるんでしょ、学校とは関係なく?」
「どうして知ってるの?」僕は驚いて彼女の目を見た。彼女の瞳は日本人の平均よりもずいぶん色が薄いような気がした。茶色の瞳が春の太陽を受け、より一層鮮やかに見えた。
「だっていつも一人でいて、全身黒ずくめで髪が長くていつもヘッドフォンして歩いてるじゃない。どう見たって何かやってるって感じだよ」彩子はまるであたりまえのことを言うように静かに言った。彼女は古びた黒い灰皿でタバコを消すと、静かに立ち上がった。
「ちょっと私もコーヒー買ってくるよ」
僕が頷くと、彩子は学生会館へと入っていった。彼女の腰から尻にかけては女性としては非常に細く、その細さが彼女の後ろ姿にひどく鋭敏で繊細な印象を僕に与えた。彼女の髪は彼女の瞳と同じぐらい茶色かったが、こちらは人工的に脱色していることがすぐに分かった。僕はしばらく彼女の後ろ姿を見つめていたが、やがて細胞分裂によって異常繁殖したような学生の群れに遮られてしまい、彼女の姿は見えなくなった。僕は諦めて中庭を眺めた。
彩子はなかなか戻ってこなかった。僕は時折振り返って学生会館の方を覗き込んでみたが、右往左往する学生達と彼らが放つ熱気とタバコの煙のせいで、彩子の姿はちっとも見つからなかった。僕は文庫本を開いたが、あまり集中ず、諦めてベンチに座ったままぼんやりと中庭を眺めていた。さっき二階の庇に隠れてしまったスズメ達はそれきり中庭には降りてこなかった。彼らは一体どこにいったんだろう。スズメはあまり長距離を飛んで移動することはできないはずだ。きっとまだ庇の陰にいるのか、それとも庇に沿って別の場所に歩いて移動してしまったのか。いずれにしてもスズメの行動範囲はそれほど広くないはずだ、一口に翼を持った鳥と言っても、渡り鳥のように長距離を移動できるものもあれば、スズメのように近所をこぢんまりと移動することしかできないものもいる。ここのスズメ達はラッキーだ。ここにくればこうして暇な学生からパン屑を恵んでもらえるし、庇の陰に隠れれば雨が降っても濡れることがない。何も生産的なことをすることなく、庇と中庭の間を行ったりきたりして、雛を育てて死んでいくという人生は一体どんな気持ちのするものなんだろうか。いや、気持ちなんてものがあったらそんな単調な生活には耐えられないのかも知れない。気持ちや心なんてものがあるから、人間は苦しんだり悲しんだり絶望したりするんだ。きっとスズメの社会には絶望も憎しみも存在しないのかも知れない。その変わり愛情や歓喜と言ったものもないのかも知れないけど。「おう、立花じゃないか」
ぼんやりとスズメのことを考えていたら僕の背後から沢田が声を掛けてきた。沢田は小さな体を大きく揺さぶりながら、満面の笑みを浮かべてやってきて、僕の隣にどっかりと座った。置きっぱなしになっていた彩子の鞄を尻で踏み付けそうになっていたが、そんなことにはちっとも気付いていない様子だった。
「どうした立花、先週全然学校来てなかっただろう。病気か?」
「うん、まあそんな感じだな」僕は面倒なので適当に返事をした。沢田の顔全体には、おい、立花、大丈夫か、と書いてあるようだった。それぐらい気の毒そうな顔をした。僕は彼の言葉が出てくるのを待った。「おい、そうか、で、もう大丈夫なのか?」と僕に尋ねた。彼の顔を見ていると、本当に具合が悪くならないと彼に申し訳がないような気持ちになってきた。
「うん、多分もう大丈夫だと思う。悪いな、心配掛けて」
沢田は僕の言葉に満足そうに何度も頷くと、満面の笑顔を見せた。
「ところで立花、お前今度の土曜って暇か?」
「うーん、まだ良く分からないけど、何で?」
「みんなでさ、東京ディズニーランドに行くんだけどよ、立花も来いよ」
「ディズニーランド?」僕は驚いて大声を出した。沢田の顔と姿からディズニーランドという単語が出てくるとは夢にも思わなかったのだ。
「みんなって、誰?」僕は尋ねた。
「みんなってクラスのみんなだよ」
「クラスってM組の?」
「他に何のクラスがあるんだよ。せっかくみんな同じクラスになったんだからよ、仲良くしようぜってことで遊びに行くんだよ」
「で、沢田が幹事なの?」
「そうそう」
「全員が行くの?」
沢田は急に黙った。僕は沢田の顔をぼんやりと眺めていたが、彼はもごもごと聞き取れないような声で呟いていた。
「いや、まだ決まってるのは7、8人なんだ」彼は残念そうに言った。本当に残念そうだ。
「でもいいんじゃない、それぐらいで。あまり人数増えるとそれはそれで面倒だよ、きっと」僕は他人事のように彼を慰めなくてはならなかった。彼はうつむいたまま消え入るような声で囁いた。
「全員男なんだ」
「え?」僕は何のことだか分からずに聞き返した。
「行くのが決まってるのが全員男なんだ」沢田は頬を赤く染めて今度ははっきりと言った。僕は思わず吹きだしそうになったが、必死にそれをこらえた。
「でも僕が加わったって男の人数が増えるだけだけど」
「いや、まあ、そうなんだけどな。」沢田はそれきり黙っていた。
「どうして女の子は一人も来ないんだろう」僕は他人事のように呟いた。本当にどうして女の子が一人も来ないのか、想像ができなかった。というよりも、正確にはどうして男が8人くるのに女の子が一人も行こうという気にならないのか、よく分からないだけで、僕自身はひどく無関心だった。沢田は僕の隣で中庭の地面を見つめたままじっとしていた。「立花君、悪い、ちょっと友達に捕まっちゃってさあ」振り向くと彩子が戻ってきていた。彩子はニットのセーターの袖を指先の方まで引っ張って、熱すぎる缶コーヒーを引っ張ったセーターの袖口で包むようにして大事そうに持っていた。彩子は僕の隣に腰掛けている沢田の方を見て小さく微笑んだ。
沢田は彩子の顔を見ると急に立ち上がり、「あ、すまん、邪魔したな。じゃ、また後でな、立花」と言うと、あたふたといなくなってしまった。僕は沢田を呼び止めようとしたが、彼は早足でさっさと校舎の中に入っていってしまった。僕は何がなんだかさっぱりわからなかった。「ねえ、今の男の子、うちのクラスの沢田君だよね」彩子はコーヒーのプルリングを苦労して開け、息を吹きかけながら僕に尋ねた。
「うん、そう。でもどうしたんだろう。話の途中だったんだよ」
「私がいたら迷惑な話だったのかな」彩子はコーヒーの缶を見つめたまま静かに言った。
「いや、全然そんなに複雑な話じゃないんだ。ディズニーランドの件なんだけど」
「ディズニーランド?」彩子は顔を上げ、目を丸くして尋ねた。
「あれ?」
「何、ディズニーランドって?」
「沢田から聞いてないの?」
「だって私、沢田君と話もしたことないもの」
僕には何がなんだか良く分からなかったが、これ以上説明するのも面倒なので、そのまましばらく黙っていた。彩子も静かに一口ずつ缶コーヒーを飲んだ。
「ねえ、立花君、今週末って暇?」やがて彩子が言った。
「うん、多分暇だと思うけど」僕は答えた。
「ねえ、暇なんだったらどこか遊びに行こうよ。私も暇なのよ」
「いいよ。じゃあ土曜日でどう?」
「オーケイ。じゃ、私の電話番号あげるから、立花君のも頂戴」
僕と彩子はノートの切れ端にお互いの電話番号を書いて渡した。彩子の字はとてもきれいに整っていて、若い女の子の字ではないようだった。僕がそれを褒めると彩子は素直に喜んだ。
「ずっと習字を習ってたんだ。一応これでも段持ってるんだよ」彩子は今日初めて顔全体でニッコリと微笑んだ。僕もつられてニッコリと微笑んだ。今朝鏡に向かって練習した成果をさっそく発揮できることになった。
「僕は習字がずっと大嫌いだったんだ。左利きだから、絶対にうまく書けないんだよ。いつも習字の時間は一刻も早く終わってくれることを祈ってたよ」
「へぇ、立花君て左利きなんだ」彩子の表情が豊かになってきたことを感じた。僕もそうだが、彩子も最初は緊張していたのだ。
「そう、字も左、箸も左。利き脚も左、利き目も左。全部が人と反対なんだ」
「左利きって天才肌の人が多いんだよね」彩子が言った。
「そんなの知らないよ。きっと珍しいからそう思うだけだよ。僕なんか全然才能ないし、自分が何やってるのかも良く分からないんだから」
「そうだね、立花君の顔見てても、あんまり天才には見えないもんね」
「ねえ、ちょっとそれってひどいんじゃない」僕は呆れたように言った。彩子は今日初めて声を出して笑った。一限の終了を知らせるチャイムが鳴り響き、僕達は一緒に席を立ち、校舎に入った。並んで歩くと、彼女は僕の肩ぐらいまでしか背がなかった。「やっぱりでかいねえ」と彩子は呆然と僕を見上げながら言い、小さくクールに微笑んだ。彼女と並んで歩いていると、大学にいることがそれほど不快には感じられなかった。僕達は世間話をしながら6階の教室へと入っていった。教室の窓からは柔らかい春の陽射しが射し込み、冷たい教室の雰囲気をいくらか暖めてくれているように思えた。
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