僕は沢田とディズニーランドの話の続きをしたかったのだが、沢田は授業が始まる直前に教室に入ってきて、授業が終わるとさっさと教室から出ていってしまったので、結局僕は彼と話をする時間を持たなかった。彼は本当に急いでいるようにも見えたし、僕を避けているようにも見えないことはなかったが、そんなことはどうでも良いことだった。僕と彩子は講師の外国人の指示通り隣合って座った。彩子は未だに教科書を買っていないらしく、今日も僕が教科書を見せることになった。僕の教科書を覗き込む度に、彩子の栗色の髪からリンスの柔らかな香りが立ち昇った。時折髪の毛の内側から、銀色のピアスがキラキラと輝いているのが見えた。

この日僕は2回講師に指されて、短い英文を復唱させられた。彩子も2回指されていた。彩子の英語の発音は多少たどたどしい部分はあったが、米国式の非常にきれいなものだった。僕は自分の発音に自信がなかったので、指される度に緊張した。

授業が終わると彩子は友達と約束しているからと言って僕と別れ、一人で階段を降りていった。僕は特にやることがないので一人で地下の学食に行って定食を食べた。チキンカツは乾いた雑巾のような味がした。相変わらず低い天井の学食は、学生達が吸うタバコの煙で天井の辺りが白く煙っていて、何を食べてもタバコの煙の匂いが入り込んでいるような気がした。僕は食事を終えると食器を片付け、再び中庭へと向かった。

昼休みの中庭は学生達でごった返しており、ベンチは一つも空いていなかった。僕はしばらくスズメ達の姿を探したが、スズメは一羽も残っていなかった。僕は中庭を出て、図書館へと向かった。僕はタバコが吸いたかったので、図書館の前のベンチに腰を下ろしてタバコを吸った。図書館の前のベンチは日陰になっていて、じっと座っているとひんやりとした冷気が足元から上がってきて寒かった。僕はベンチの脇の灰皿で半分残ったタバコをもみ消すと、図書館に入った。

昼休みの図書館は学生会館と同じように人々でごった返していた。閲覧室には学生達が大挙して押しかけ、サンドウィッチを食べたり大声で話したりしていて、とても静かに本を読むという雰囲気ではなかった。仕方なく僕はUターンして、校舎へと戻った。ぼんやりとキャンパスを歩いていると僕はまただんだんと嫌な気分になってきた。時計を見ると午後の授業までまだ40分以上あった。僕は午後の授業には出ずに学校から出ることにした。



僕は地下鉄に乗って家へとむかったが、途中ふと思い出してたっちゃんの店に顔を出した。よく考えれば先週のあの黒タートルの男の件以来、僕は一度も店に顔を出していなかったのだ。

たっちゃんの店はまだ昼の忙しさの残像が残っており、たっちゃんもポールも忙しそうに働いていた。みこさんの姿はなかった。僕がドアを開けて中に入ると、たっちゃんが「よおっ、大丈夫か」と声をかけてくれたが、カウンターもテーブルもサラリーマンやテレビ局の関係者達で満席だった。
「また来るよ」僕は言った。
「悪いな、立花。もうちょっとで暇になるからさ。体の方はもう大丈夫か」
「うん、おかげさまでもうどこも痛くない。ありがとう」
「そうか、それはよかった。ポールとも心配してたんだよ、立花もう店にくるのが嫌になったんじゃないかってさ」たっちゃんはポールの方をちらっと見ながら言った。
「そんなことないよ、またくるよ」僕はたっちゃんとポールの方を順番に見た。ポールは黙って洗い物をしていたが、僕の方に目をむけ、小さく微笑んだ。
「じゃ、また」
僕は店を出て家に帰った。途中レコード屋に寄ってみたが、何も欲しいものがみつからなかった。



その日の夜に、沢田から電話がかかってきた。僕はそのとき部屋でぼんやりとビートルズを聴きながら、彩子のことを思い出していた。僕が電話に出ると、沢田は勢いよくしゃべり続けた。
「おう、立花、今日昼間は悪かったな、邪魔しちゃって」沢田は言った。
「いや、別に全然邪魔なんかじゃなかった。どうしたんだよ、話の途中で急にいなくなっちゃって」
「いや、すまん。ほれ、でも邪魔しちゃ悪いと思ってな。ところで立花、お前結局ディズニーランド行くか?」
「いや、悪いけど土曜日は予定が入っちゃったんだ」
「そうか、残念だな」本当に残念そうに沢田は言った。
「でもさ、沢田、ホントにクラスの女の子みんなを誘ったの?さっき僕が話してた女の子、知ってるだろ?」
「知ってるに決まってるだろ。佐藤彩子だろう」
「でも彼女、ディズニーランドのこと、全然知らないみたいだったよ」
「立花、お前まさか彼女にその話ししたのか」沢田は突然大声を張り上げた。僕は受話器を耳から離したが、耳が痛くなった。
「何だよ急に大声だしたりして、話すも何も、話しの途中でお前がいなくなっちゃったんだから、全部話せるわけないだろう。ディズニーランドの件って言っただけだよ。彼女お前と口も利いたことないって言ってたぞ」僕は言った。
「そりゃそうだ。確かに話もしたことない」と沢田。
「誘ってないものが、来れる訳がないだろう」
「だから、それをお前に頼もうと思ったんだよ。お前が誘えばきっと女の子達もみんな来るって言うだろう。お前はルックスも良いしみんなお前のこと知ってるし、な、頼むよ」沢田は鼻から甘ったれた声を出した。僕は腕に鳥肌が立った。
「冗談じゃないよ」本当に冗談ではない。
「だいたい僕は沢田以外のクラスの人間と殆ど口も利いたことないんだから、そんなことできないよ。そもそも僕は幹事とかそう言うの、すごく苦手なんだから」僕はむきになって言った。どうしてみんなが僕のことを知っているなんて沢田は思っているのかがさっぱり分からなかった。
「でも立花、お前さっきだってああやって佐藤彩子とあんなに楽しそうに話してたじゃないか。何時の間にあんなに仲良くなったんだよ」
「彼女とは今日初めて話をしたんだよ」
沢田は受話器越しに小さくため息をついた。僕は黙っていた。
「そうか、悪かったな、無理言って。すまんすまん」沢田が折れたので、僕も謝った。「じゃあ、また明日学校で」そう言って僕達は電話を切った。僕はまだ何か言いたかったのだが、その言葉の断片はちっとも実体を持たず、頭の中で漠然とした姿のままくるくると回転を続けていた。僕は諦めて台所に行き、冷蔵庫からビールを一本出してきて飲んだ。飲みながらふと思い出して、鞄の中から財布を引っ張り出し、中から二つ折りにしたノートの切れ端を引き抜いた。紙片を開き、しばらく彩子の整った字で書かれた氏名と電話番号を眺めた。やがて僕は鞄から手帳を出して、アドレス帳に丁寧に彼女の名前と電話番号を書き写した。どんなに丁寧に書いても、僕の字はやはり曲がりくねっていて、とても習字で段がとれるようなものではなかった。僕は手帳をベッドの上に放り投げると、ピンで紙片を壁に貼り付けた。それだけしてしまうと僕は意味もなく満足し、残りのビールをゆっくりと飲んだ。ジョン・レノンの歌声が耳に心地よかった。



翌日もその次の日も、僕は大学にきちんと行って全部の授業に出席した。沢田にも彩子にも一度も会わなかった。僕はどの講義も窓際の隅っこの席に座り、真面目にノートを取った。ノートを取りながらこれが一体何の役に立つんだろうかとは思ったが、他にすることもないので丁寧に講師の言葉や板書をノートに書き写した。シャープペンの芯が紙に触れてサラサラという小気味のよい音を立てていた。退屈だったが、静かな日々だった。



木曜日の夜に彩子が電話してきた。夜の8時過ぎだった。僕はアルバイトを探そうと思い、求人雑誌を買ってきてペラペラとページをめくっているところだった。
「こんばんは」彩子は静かに言った。
「こんばんは」僕も言った。
「ねえ、私今何してると思う?」
「随分唐突な質問だね。全然分からない」
「ちょっとは考えてから分からないって言いなよ、詰まらないなあ」
「うーん、じゃ、レコードを聴いてるとか」
「はずれ」
「テレビを見てるとか」
「それもはずれ」
「うーん、やっぱり分からないよ」
「想像力がないなあ。正解は、お風呂から上がって髪の毛を乾かしながら、赤ワインをグラスに注いで、立花君に電話している、でした。立花君、赤ワインって好き?」
「嫌いじゃないけど、それほど飲んだことないかも知れない」僕は考えながら言った。今と違って当時はまだワインは結構高い酒だった。
「立花君は、お酒強いんだよねえ」
「飲もうと思えばそれなりには飲めるけど、自分が強いのか弱いのか良く分からないんだよ」
「何が一番好き?」
「好きとか嫌いとかってあまり考えたことないな。あるものをいつも適当に飲んでる。ビールとか、ウィスキーとか」話しながら僕は彩子の白くて細い指や、栗色の髪の毛や、銀色のピアスを想像した。今度は彼女の顔をはっきりと思い出すことができた。
「いつも家で飲んでるの?」僕は質問してみた。
「まさか、私アル中じゃないんだから。今日はバイトのお給料日だったから特別」
「バイトって何やってるの?」僕は尋ねた。
「塾の講師。高校生の頃からずっとやってるんだ。大学受験の間も一度も休まなかったんだよ。偉いでしょ」彩子は得意気に言った。僕は高校三年生の一年間、受験の為にバイトをやめてしまったので、素直に彩子のことを褒めた。彩子はこの前と同じように素直に喜んだ。
「私ってね、褒められるのすごく好きなの。立花君て、素直に私のこと褒めてくれるから素敵だよ」彩子はそう言うと、ワインを飲んでいるらしかった。グラスがテーブルに触れる音が電話越しに聞こえてきた。
「立花君は、今何してたの?」
「バイト探しの雑誌見てた」
「ねえ、どんなバイト探してるの?」
「いや、時給が良ければなんでもいいんだよ。特にやりたいこともないし」
「塾の講師なんてどう」
「そんなこと僕にはとてもできないよ。人に教えるのってすごく苦手なんだ」
「そう、残念ね」彩子はそう言うとまたグラスを持ったようだった。彼女が黙ると電話越しに微かに音楽が聞こえてきた。

僕達は土曜日の約束をして、電話を切った。二人とも土曜日の午前中に授業があるので、お昼に大学で待ち合わせをした。
「ねえ、ちゃんと待ち合わせの場所と時間、手帳に書いておきなよ。間違えたりしたら嫌だからね」
「僕は時間割も待ち合わせも間違えないよ」僕がそう言うと彩子はふふんと笑った。

電話を切ると僕は部屋に戻った。タバコが切れていることに気付いて僕は近所の酒屋までタバコを買いに行くことにした。長そでのシャツ一枚で外に出てももう寒くなかった。酒屋で僕はタバコと一緒にボジョレーのハーフ・ボトルを一本買ってきて、部屋で一人で飲んだ。渋味が口の中に広がって心地よかった。僕はモーリス・ホワイトのカセットテープを静かにかけ、ベッドでワインを飲み、タバコを吸った。ぼんやりと何かを考えているつもりが、いつの間にか眠ってしまった。静かで深い眠りだった。





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