土曜日に僕と彩子は大学の正門のところで待ち合わせをした。東京の春特有のもったりとしたもやがかかり、青空は心なしかくすんで見えたが、それでも気持ちの良い春の日だった。僕は午前中の授業が終わると売店でタバコを買い、時間を計るようにゆっくりと正門まで歩いて行った。僕が門に着いた時、彩子はまだ来ていなかった。

門の脇の塀にもたれ掛かり、僕がタバコに火をつけたところで彩子がやってきた。黒の細みのジーンズに淡いブルーのニットのセーター姿の彩子は、今までよりもずっと大人っぽく見えた。彼女は急いでやってきたらしく、息を弾ませていた。

「ごめんごめん、遅れちゃったよ」彩子は右手で拝むような仕草をしながら僕に向かって微笑んだ。
「いや、僕も今来たところだから全然構わないよ。でも、今日授業だったんじゃないの?」僕はタバコを地面に落とし、靴で踏み消しながら言った。
「いやー、昨日の夜にちょっと飲み過ぎちゃってさあ。今朝起きれなかったんだよね。面倒になっちゃって学校休んじゃった。まあ、たまにはこんなこともあるよ」彩子はなんでもなさそうにそう言うと、小さく口の隅を曲げてクールに微笑んだ。
「また家でワイン飲んでたの?」僕は尋ねた。
「まさか、キッチンドリンカーじゃないんだから。昨日は高校の時の友達とみんなで集まってたんだ。早く帰って来ようと思ったんだけど盛り上がっちゃってさ、ついつい飲み過ぎちゃったんだ」
彩子はそう言うとゆっくりと門から離れて歩き始めた。僕も彼女について歩いた。門の外の桜並木は若い葉を力いっぱい広げ、深呼吸をしているように鮮やかだった。

「ねえ、今日はどこに連れていってくれるの?」彩子は歩きながら僕を見上げて言った。僕はそれまで格別なにも考えていなかったので、すぐに返事ができなかった。僕がどうしようかと考えていると、彩子が、のんびり散歩したい、と言うので、僕らはとりあえず電車に乗って信濃町まで行くことにした。信濃町で電車を降りると外苑に向かって歩いた。銀杏の新緑は桜の新緑よりも更に鮮やかで、小さな葉はまるで赤ん坊が一生懸命手を伸ばして何かを掴もうとしているかのように見えた。僕と彩子はゆっくりと外苑の周回道路を並んで歩いた。
「ねえ、立花君は今日わたしと会うこと、彼女に何て言ってきたの?」彩子は真っ直ぐに前を見たまま静かに言った。
「彼女?」僕は驚いて聞き返した。
「そう、彼女に怒られなかった?別の女の子に会うって言ったら」
「彼女なんていないよ」僕は言った。
「どうして僕に彼女がいるって思ったの?」
「いると思ったからよ」彩子は微笑んで言った。
「そういう君はどうなの?君こそ大丈夫なの?」僕は言った。
彩子は、ふふん、と鼻を鳴らして黙っていた。僕は彼女の言葉を待った。歩道の脇を車がぽつりぽつりと走り去って行った。
「大丈夫、心配しないで。わたしも華の独り者だから」彩子は足を止めて僕を見つめてそう言った。
「わたしに彼がいると思ってた?」彩子が言った。
「いや、全然そう言うことは考えてなかった。彼氏がいるとかいないとか、そう言うことは」僕は言った。本当にそんなことは一度も考えなかったのだから仕方がない。
「なんだ、つまらない」彩子はそう言うと、肩にかけていたバッグのストラップを手に持つと、ぐるぐると回しながら歩き始めた。僕はバッグで殴られないように、彼女から少し遅れて歩かなくてはならなかった。
「ねえ」彩子は相変わらずバッグをぐるぐると回しながら僕の方を振り返って言った。
「こう見えてもわたしって、結構もてるんだよ」
「そうだろうね」僕は言った。実際彩子はもてるのだろう。彼女の男言葉での話し方はすごく彼女の外見に似あっていたし、彼女のしゃがれたハスキーな声も、彼女の雰囲気にぴったり似合っていた。ぴったりとした細いジーンズや茶色に脱色した肩までの髪や、いつもつけている銀色のピアスも彼女の存在感にしっとりと馴染んでいるようだった。
「わたしにデートに誘われるなんて、結構光栄なことなんだよ。ありがたく思いなさいよ」
「うん、実に光栄だと思うよ」僕はだんだんおかしくなってきて、笑いながらそう言った。彩子はストラップを持って回していたバッグで僕の背中を叩いて、本当につまらない、と言った。

僕達は絵画館前を曲がって青山通りに出て、そのまま表参道まで歩いた。時間が経つに連れて歩道には人の数が多くなってきた。僕達は並んで、時々思い付いたことを喋りながらゆっくりと歩いた。温かい春の陽射しに誘われるように、家族連れやカップルがのんびりと青山通りを歩いていた。僕も着ていた上着を脱いで、手に持って歩いた。

表参道を原宿に向かって歩いていると、彩子が、疲れたしおなかがへった、と言い始めた。僕もまだ昼食を食べていなかったので、適当に目についたオープン・エアの店に入った。僕はローストビーフのオープンサンドウィッチとカフェ・オレを注文し、彩子はオムレツのサンドウィッチと紅茶を頼んだ。純白のシャツに黒の蝶ネクタイをしたウェイターが感じの良い笑顔と共に僕達のオーダーを取り、去って行くと、僕はタバコに火をつけた。彩子も銀色のライターでバージニアスリムに火をつけた。
「ねえ、女の子がタバコを吸うのって、許せないと思う?」彩子は細い煙を口から吐き出しながら僕に尋ねた。
「別に許せないなんて思わないよ。吸いたい人は吸えばいいし、吸いたくない人は吸わなければいい。他人に迷惑が掛からなければそれでいいと思うけど」僕も煙を吐き出しながらそう言った。
彩子は口をすぼめて、ふうんと言ってからまたタバコを吸った。
「じゃあさ、立花君はスカートを履かない女の子は許せないと思う?」僕は冗談かと思ったが、彩子が真面目な顔をしているので笑うのを止めた。
「そんなの個人の自由だよ。スカートだろうとふんどしだろうと、履きたい人は履けばいいし、履きたくない人は履かなければいい。それだけだよ」
「ふんどし?」彩子は目を丸くして僕のことを見た。
「それって冗談なのね」彩子はため息をつきながら肩をすくめた。僕も彩子のマネをして肩をすくめてみた。彩子が声を出して笑った。
「ねえ、立花君って、ちょっと変わってるよね」彩子は目を細めて言った。
「そんなことないと思うな。僕には特に何の才能もないし、特殊技能も持ってる訳じゃないし、ごく平凡な人間だよ」
「でもさ、わたしの周りの男の子達ってさ、すごくわたしに色々なことを要求するのよ。女の子なんだからタバコなんか吸うなとか、スカート履けとか、弁当作れとか、セーター編めとか、そんなのばっかり。自分はわたしに何もしてくれないくせにさ。そんなのひどいと思わない?」
僕は黙っていた。彩子の白くて細い指に挟まれたタバコの灰がだらりと垂れ下がり、テーブルの上に落ちそうになっていたので、僕は灰皿を彩子の方に差し出した。彩子は、ありがとう、と言ってタバコを灰皿でもみ消した。彼女は爪の先で器用にタバコの燃えている部分だけをそぎ落として灰皿の上に落とし、しばらくじっと火種が燃え尽きるのを眺めていた。
「僕は別に君がジーンズを履いていても、ミニスカートを履いていても、どっちでも構わないけどな」僕は言った。
「ねえ、それってわたしにあんまり魅力がないってこと?」彩子はじっと僕の目を覗き込むように言った。口元が微かに微笑んでいるのが分かった。
「うそだよ、立花君が言ってることはちゃんと分かる。ちょっとからかってみたくなっただけだよ」彩子はそう言うと笑った。さっき注文を取っていったウェイターがサンドウィッチを運んできたので、僕達は食事にとりかかった。彩子が頼んだオムレツのサンドウィッチはもの凄いボリュームで、彼女は思い切り口を大きく開いても上手に食べることができなかった。ケチャップやレタスの切れ端がバケットの隙間からはみ出してきて、白い陶器の皿の上に落ちた。彼女の白い指にもケチャップやオムレツがついた。彼女は指先についたケチャップをぺろりと舐めた。
「男の子との最初のデートで食べるメニューじゃなかったみたいだね」彩子はペーパーナプキンで両手の指先を拭きながら笑った。
「いや、君のそんな姿を見られるのは実に光栄だよ」僕も笑って言った。
「やっぱり立花君って、ちょっと変わってるよ」彩子は笑顔の中に真実味を込めるように、ゆっくりと言った。僕は何も答えなかった。



僕が頼んだローストビーフのサンドウィッチの味は悪くなかった。ローストビーフはみずみずしく、マスタードとバターのバランスも良かった。キュウリとレタスも新鮮だったし、なによりもバケットが美味しかった。彩子も両手をケチャップだらけにしながらもオムレツのサンドウィッチに満足したようだった。食事が終わると僕達はコーヒーを一杯ずつ追加で注文して、時間をかけてゆっくりと飲み、タバコを一本ずつ吸った。
「ねえ、立花君と一緒にいると、ちっとも緊張しないんだけど、なんでだろう」彩子はコーヒーをブラックのまま一口飲み、カップを手にしたまま尋ねた。
「さあ、どうしてだろう。でも僕も君と話してるとあまり緊張しないな。いつもはすごく人見知りが激しいんだけど」
「人見知り?」彩子は高い声を出した。
「冗談だよ」僕は若干傷つきながらそう付け足した。
「やっぱり立花君て、ちょっと変みたい」
「光栄だよ」
「でしょ。ありがたく思いなさいよ」

ひとしきり冗談を言いあった後、僕達は店を出た。時計を見ると4時になろうとしていた。赤みを強め始めた太陽が、若い葉をつけた並木の陰を歩道に長く焼き付けようとしていた。
「ねえ」と彩子が言った。どうやら彼女は何かを話し始めるときに、「ねえ」と言うのが癖らしかった。
「わたし今日6時からバイトなの。そろそろ帰らなきゃ」彩子は時計をした左手を差し出すように僕の前に示した。
「ねえ、そう言えば君はどのへんに住んでるの?」
「下町の方だよ。わたしってバリバリの江戸っ子なんだから。口げんかなら誰にも負けないからね」
「とてもそうは見えないな」
「冗談だよ」彩子は舌を出して笑った。
「光栄だよ」僕は言った。
「でも下町に住んでるのは本当だよ。結構ガラが悪いね、ウチの周りって。今度遊びにおいでよ、結構ビックリするかもよ」

僕は頷いた。僕達は夕日を背にして歩いていたので、僕達のはるか前方を、ずいぶん背丈の違う二つの影が、寄り添うように並んで揺れていた。

僕は彩子をJRの原宿の駅まで送り、地下鉄で家に帰った。別れ際に彩子は僕に手を振り、「また遊ぼうね」と言って微笑んだ。僕も小さく彼女に手を振り、彼女の後ろ姿を見送った。一度ぐらい振り向くかと思ってしばらく待っていたが、彼女は一度も振り向かず、やがて人込みの中に消えて行った。彩子の姿が見えなくなってからも、しばらく僕はぼんやりと改札の向こう側を見つめていた。そして僕は小さくため息をつき、地下鉄の入口へと向かった。



僕は地下鉄に乗りまっすぐに家に帰ると、部屋で音楽を聴いた。特に何かを聴きたいという訳でもなかったのだが、家に帰ってくると突然人恋しくなってしまい、音のない状態に耐えられなくなってしまったのだ。僕はプリンスの「Parade」をオートリピートでぼんやりと聴き、冷蔵庫から缶ビールを持ってきて飲んだ。僕はベッドの上に寝転んで、彩子の顔や声を思い出し、それから今日の会話を一つずつ思い出していた。

ひとしきり彩子のことを考えてから、僕は本棚から適当に本を引っ張り出してきてパラパラとページをめくった。適当に選んだ部分を1、2ページ読むと、電話のベルが鳴った。もしもし、と僕が言うと、電話の向こうの声が「立花君?」と尋ねてきた。聞き覚えのある女性の声だったが、誰だか僕には思い出せなかった。
「はい、立花ですけれども」僕は慎重に答えた。
「どうしたのよ、元気なの?」電話の相手は名乗りもせずに話し始めていた。
「あの、失礼ですけれども」僕は尋ねた。頭の中で電話の相手の声が微かに像を結ぼうとするのだが、それはぼんやりとした姿を形成したかと思うとまたバラバラになってしまうのだった。
「あ、ごめんなさい。わたしよ、美佐子よ」
「ああ、みこさん。こんばんは」
「こんばんは、じゃないでしょう。最近ちっとも店に顔も出さないで。この前怪我したんでしょ?もう大丈夫なの?」みこさんは早口で話した。
「あの、みこさん、今どこから電話してるんですか?」僕は尋ねた。
「店からだけど」
「あ、じゃあ今から顔出しますよ。丁度暇してたんで」
「残念ながらもう閉店時間よ。暇してるんだったらわたしにちょっと付合わない?」
「いいですよ。ちょっと飲みましょうか」
「いいわね。立花君、7丁目の角のメンフィスってバー知ってる?」
「知ってます。何度も行ったことあります」
「じゃあ、メンフィスで待ってて。店の片付け終わったら行くから」

電話を切ると僕はメンフィスに向かった。昼間の穏やかな陽光はすでにすっかり失われ、アスファルトはひんやりとして、闇の中で街並も冷たく見えた。僕は黒のズボンのポケットに両手を入れて、早足で歩いた。鼓動が速くなり、視界が狭くなるような錯覚を憶えた。どうして自分がこんなに急いで歩いているのかも分からないまま、僕は頭の中で彩子の笑顔とみこさんの声を交互に思い出していた。





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