六本木通りから一本裏に入った路地の、ラブホテルの向い側、冷たく無機的な白い階段を地下に降りるとそこにメンフィスがある。重い木の扉を開いて店の中に入ると、空気の質感が一気に変わるような気がした。カウンター席には一組のカップルが、テーブル席には3人組のサラリーマンがいるだけで、閑散としていた。都会のバーにしては照明は明るく、本を読むのにも全く苦労しないぐらいだ。痩せた中年のバーテンは調理場へのカウンターのところに雑誌を置いてパラパラとページをめくっていたが、僕に気付くと懐かしい感じがする笑顔を見せて、いらっしゃい、と言った。

僕はカウンターの隅に腰を降ろし、ジン・トニックを注文した。カウンターの反対側の隅に座ったカップルはひそひそと囁くように話し続けていたが、BGMのビル・エヴァンスのピアノにかき消されてしまい、話の内容は聞き取れなかった。テーブル席のサラリーマン3人連れは何やら仕事の打ち合わせをしているらしく、時折体格の良い三十代の男が大きな声で残りの二人を説得しているようだった。

僕はジン・トニックを一口飲み、ピスタチオを注文した。ビル・エヴァンスのトリオが店の空気を静かに対流させるように店の隅々までに行き渡っていた。僕はピスタチオを二つほど殻を割って食べ、ふと時間が気になって腕時計を見た。

時刻は8時半を少し過ぎたところだった。僕は夕方原宿で彩子と別れてから今までまるきり自分から時間の感覚がなくなってしまっていたことに気付いて少なからず驚いた。自分が家で何を考え、何をしていたのかが思い出せなかった。

彩子の顔や話し方を思い出していると、ふと僕の中にまた熱を持った炎がぽっと灯るような気がした。僕の体の中に方向性のない熱が発生して、僕はこの熱に体をむしばまれていしまう。何かを破壊したいような衝動に駆られたり、全てをメチャクチャにしてしまいたくなり、無意味にどこかに全速力で走って行きたいと体中の筋肉が訴え、やがて小刻みに震え始める。僕は自分が何をしたくて、どこに行きたいのかがさっぱり分からなかった。そして自分が何をするべきで、どこに行くべきかということもさっぱり分かっていなかった。僕はジン・トニックを飲み干すとカウンターの上で手を組み、目を閉じて自分を突き上げようとする衝動を何とか収めようと、何度か深呼吸をした。体の中の血液は力強く流れ続け、僕の頭はカリカリと音を立てて回転を続けていた。僕の頭は何かを一生懸命計算しようとしているのだが、その計算は完全にループに入ってしまい、いつまでたっても答えを出すことがなかった。僕の目の前にはただ広大なアスファルトの滑走路のような道が地平線まで続いているだけで、何の目印も標識も見当たらなかった。僕はため息をつき、バーテンにジン・トニックのおかわりを注文した。二杯目のジン・トニックを飲み干すと、僕は少し落ち着いてきた。

三杯目のジン・トニックが僕の前に置かれるのとほぼ同時に、みこさんがやってきた。みこさんはグレーのミニのワンピース姿で、ちょっと喫茶店のウェイトレスには見えないような格好をしていた。みこさんは店の入口で小さく僕に手を振ると、ヒールの踵をコツコツと鳴らしながら僕の隣までやってきた。

「ごめんね、結構待ったでしょ」
「いや、それほどでもないと思うけど」
「そう、じゃ、良かった。立花君、何飲んでるの?」
「ジン・トニック、三杯目」
「何よ、やっぱり結構長く待ってたんじゃないの。私も同じものを貰おうかな」
僕達は乾杯してジン・トニックを一口ずつ飲んだ。みこさんはバッグからタバコを取り出して火をつけた。
「立花君、ホントにもう怪我は大丈夫なの?」みこさんは口にタバコをくわえたまま黒のゴムで髪をとめていた。みこさんの耳からうなじにかけてのなだらかな曲線があらわになると、それまでの彼女の芯の強いイメージがふと弱まり、繊細で柔和な雰囲気が彼女を包み込んだ。僕はみこさんの姿を横目で眺めていた。
「うん、もう大丈夫だと思う。怪我ってほどの怪我はしてないし。ただ口の中が切れただけだから」
「そ。だったらいいけど。みんなが心配してるわよ、ちっとも店に顔を出さなくなっちゃったって。わたしも随分心配したのよ。こう見えても」みこさんはそう言いながらカウンターに肘をついたまま僕の顔を覗き込むように微笑んだ。彼女の笑顔はいつも店で見る笑顔とはちょっと違い、リラックスしているように見えた。彼女の笑顔は素敵だった。
「ところでみこさん、僕の家の電話番号、どうやって調べたの?」
「高野君よ。あの子いつもヘラヘラしてるようで、結構みんなのこと良く見てるわよね。昨日も店でたっちゃんとわたしとで立花君の話してたんだけど、そしたらふらっとわたしのところに立花君の電話番号持ってやってきて、みこさんから電話してやってください、って結構真顔で言うのよ。多分高野君が一番心配してたんじゃないかしら」
「あいつには隠し事はできないみたいだなあ」僕は笑った。みこさんは僕の顔を真顔で見つめていた。
「立花君、明日は店に顔出しなさいよ、ポールも心配してるんだから」
「うん。でもそんなに心配してもらうほどのことじゃないんだけどな」
「いいから黙って顔を出しなさい」みこさんは子供を叱るような口調でそう言うと、静かにジン・トニックを飲んだ。氷がカランと心地の良い音を立て、彼女のグラスが空になった。

場所を変えて何か食べましょうか、と僕は言ってみたのだが、みこさんはここでいいと言うので、僕達はジン・トニックのおかわりと一緒にピッツァとソーセージの盛り合わせを注文した。みこさんの指は彩子の指のように白くも細くもなかったが、こじんまりとした彼女の指は僕に不思議な安心感を与えてくれた。僕はみこさんがピッツァをつまむ仕草をボンヤリと眺めていた。みこさんは僕の視線に気付くとにっこりと微笑んだ。僕は頬が少し熱くなるのを感じていた。

「みこさんの指って、なんだかすごくいい感じですね」僕は言った。
「そう?そんなこと言われたの生まれて初めてよ。わたしこの指あんまり好きじゃないの。短くてなんだかずんぐりしてて」
「いや、だからいいんですよ」
「立花君。あなた変わってるわね」みんなで寄ってたかって僕のことを変人扱いする。
僕は微笑んだだけで何も言わなかった。みこさんは氷の溶けかかったグラスを手に持ってカラカラと氷を鳴らしていた。彼女の頬にほんの少し赤味がさしていて、彼女の端正な顔立ちが少しだけ柔らかく見えた。

「わたし9歳も年下の男の子と二人きりでお酒を飲むなんて、想像したこともなかったわ。でも立花君と話してるとあんまり年齢の差ってのは感じないみたいね。どうしてかしら」
「僕がふけてるんですかね」
「んんん、そう言うことじゃないのよね、きっと。もっと何かこう、奥の方の何かがきっと似てるのかもね、わたし達」
「奥の方」僕は繰り返した。
「そう、奥の方」
みこさんはそう言うと静かにグラスに残ったジン・トニックを飲み干した。みこさんの喉元がぴくぴくと微かに震え、冷たい液体が体内に落ちていく様子を僕は想像していた。僕のグラスももう空になっていた。僕はそろそろトニックウォーターの炭酸が腹にたまってきたので、I.W. ハーパーのロックを注文した。みこさんはしばらく指先を唇に当てて思案していたが、結局僕と同じもの、と言った。

僕達はハーパーのロックを三杯ずつ飲み、静かに話をした。みこさんは僕とほぼ同じペースでバーボンを飲んでいたが、彼女は少しずつ無口になり、その代わりに表情が徐々に豊かになっていくように感じた。<そうね>、<どうかしら>、<うーん>、<なるほどね>、と言った単語を彼女は表情だけで表現するようになり、主に会話をリードするのは僕の役割に変化していった。彼女は寡黙な訳ではないのだが、僕の話に耳を傾けている方が楽しいかのように、ずっと柔らかな笑みを浮かべていた。僕も随分リラックスしていたようで、結構酔った。

ふと時計を見ると、もう11時を過ぎようとしていた。2時間以上この店で話をしていたことになる。みこさんがそろそろ帰らなきゃ、と言い僕達は席を立った。僕は地下鉄の乃木坂の駅までみこさんを送っていった。暗い住宅地の路地を僕達は並んで歩いた。僕達は寄り添うように歩いた。僕達は殆ど話さず、アスファルトの地面をみこさんのヒールの音が冷たく響いていた。

「ここでいいわ。ありがとう」みこさんは地下鉄の入口のところで僕に言った。
「みこさん大丈夫ですか?」僕は言った。
「大丈夫よ。こう見えても結構お酒は強いんだから」みこさんはゆっくりと微笑んだ。
一瞬僕とみこさんは静かに見つめあった。僕達は言葉を発せず、体も動かさず、ほんの一瞬目と目を合わせた。僕は喉元まで何か言葉が出てきているような気がしていながら、同時に何も考えることができなかった。みこさんは僕の目を見つめたまま静かに僕の手を握り、一秒か二秒ぐらいそのまま僕の手を握っていた。やがてみこさんは静かに僕の手から自分の手を放すと、くるりと体の向きを変えて歩き始めた。
「また飲もうね」みこさんは小さな手をひらひらと振りながら階段を降りていった。僕は彼女の姿が見えなくなるまで見送り、今来た道をUターンして家へと向かった。途中の深夜営業の酒屋で僕はバーボンのポケット瓶を買い、家の近くの公園の滑り台の上に座ってそれをちびちびと飲んだ。茂みの中からブチの野良猫が現れて、滑り台の下までやってきて、ニャー、と長く鳴いた。こんばんは、と僕が声を出して言うと、猫は首をかしげて僕の方を見上げていたが、やがてぷいと後ろを向いて反対側の茂みの中に隠れていった。僕はずいぶん長い時間滑り台の上でバーボンを飲んでいた。僕は酔っ払い、滑り台がぐらぐらと揺れているような気がした。時折公園の脇を通り過ぎる人達の足音が住宅地の路地に静かに響いていた。





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