彩子は朱色のセーターに黒のレザーのミニスカート姿でやってきた。彩子は人込みの中から僕のことを見つけて大きく手を振った。僕も手を振った。僕達は六本木の交差点を飯倉方面に歩き、ビルの地下にあるワインバーに入った。僕は生ビールを注文し、彩子は白のグラスワインを注文した。僕はビールを一口飲むとタバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込んだ。店は必要以上に薄暗く、頭上に灯るスポットの弱々しい光の中に彩子の鮮やかな朱色のセーターが浮き上がるようだった。今まで気付かなかったのだが、ぴったりとしたニットのセーターが彩子の胸を大きく強調しているようだった。僕はしばらく彩子の姿をぼんやりと眺めていた。「どうしたの、なんだか元気ないじゃない」彩子が僕の顔を覗き込むように言った。
「そうかな。自分では元気だと思ってるんだけど」
「ふーん、じゃ、別にいいんだけどさ。ねえ、さっきどこから電話掛けてたの?」
「東横線の都立大学の駅のホームから」
「都立大学?なんでそんなところにいたの?」
「バンドの練習。安いレンタルスタジオがあるんだ」
彩子は目を丸くして、へえー、という顔をしながら自分のタバコに火をつけていた。細い煙を吐き出しながら一瞬顔をしかめてみせた。相変わらず彩子がタバコを吸う姿は見てみてドキッとするぐらい美しい。「立花君はヴォーカルだっけ」彩子は白ワインをごくごくと勢いよく飲み、グラスを半分ほど空にしてから僕に言った。
「うん、そう。ねえ、いつもそんなにすごい勢いで飲むの?」僕は唖然としながら尋ねた。
「うん、いつも最初はこんな感じだけど。なんか変かな?」彩子は澄ました顔をして僕を見ている。彩子の白く透き通った皮膚が薄暗い灯の中でさらに透明感を増し、まるで暗闇でひっそりと羽ばたき続ける蜉蝣の翼のようだ。顔を近付けると細い毛細血管が青く透き通っているのが見えそうだ。
「いや、変とは言わないけど、もう少し味わって飲まないともったいないよ」
「なにそれ、ビンボー臭いなあ。こんなのちょっと飲んだってたかが知れてるじゃない。ガンガン飲もうよ」彩子はそう言うとニッコリと微笑み、グラスのワインを一気に飲み干した。
「やれやれ」僕は言った。そして僕もピルスナーに半分ほど残っていたビールを空けた。
僕達はムーラナバンという赤ワインのフルボトルを注文した。ワインリストを一番上から読み上げていったが、僕も彩子もワインに関する知識が殆どないので、適当に名前が格好良いのにしようということで注文した。彩子はミックスピザとポテトコロッケとシーフードサラダとガーリックトーストと自家製ソーセージとサーモンマリネを注文した。僕は彩子が次々と注文していくのを呆然と聴いていた。彩子は僕にメニューを手渡し、立花君も何か頼みなよ、と言ったので、僕は牛肉のカルパッチョとトマトサラダを注文した。僕達は赤ワインで乾杯をした。「ねえ、さっきわたしたち乾杯しなかったよね」
「君が乾杯する前にごくごく飲んじゃったんじゃない」僕は抗議してみたが、彩子はちっとも気にしていないらしく、喉を鳴らして赤ワインを飲んでいる。
「すごく美味しい」彩子は幼稚園の子供のような無邪気そうな笑顔を見せて僕に言った。「ねえ、ちょっと飲んでみなよ、すごく美味しいから」
「うん。美味しい」僕はワインを一口飲んでから言った。本当に美味しかった。僕はそれまでお酒を本当に旨いと思って飲んだことがなかったが、このワインは本当に美味しいと思った。口の中にやや重みがある液体が入り込み、舌を溶かすように味が広がると、その後に鼻孔に抜けるように強烈な香りが立ち昇ってくるような気がした。
「ワインはゆっくりと味わって飲むものだよ」僕がグラス半分のワインを飲む間に彩子は2杯目のワインも空にしていた。僕がそう言うと彩子は不服そうに唇を尖らせたが、その表情は一秒もたたないうちに満面の笑顔へと移行していった。僕は呆気にとられて彼女の表情に吸い込まれた。彩子の表情には不安と驚きと安らぎが一度に灯っているような、何とも言えない暖かさと斬新さがあった。
「ねえ、わたしにもっとたくさん飲めって言う男の子はたくさんいるけど、飲むなって言う男の子は立花君だけだよ。どうして?」
「だって酔っ払って気持ちが悪くなったりしたら困るじゃないか」
「バカだなあ、そうしたら黙ってホテルに連れてっちゃえばいいのよ。みんなわたしのこと酔っ払わせようとして一生懸命飲ませようとするでしょ、でもね、そういう時ってわたし分かるんだよ、あ、この人、なにかイヤらしいこと考えてるなって。だからそういう時はわたし絶対に酔っ払ってたまるもんかって思って飲むんだよ。そうすれば酔っ払わないよ。わたしいつもそうしてるんだから」彩子は肘を張って男のようにワインのボトルを掴み、まだワインが少し残っている僕のグラスと自分のグラスにワインを注いだ。
「だからね、わたしが酔っ払ってるってことは、わたしがリラックスしてるってことなの。だからそう言う時は、黙ってホテルに連れてっちゃえばいいのよ」
「そう言う問題じゃないと思うんだけどな」僕は言った。
「ねえ、立花君て、わたしにちっとも魅力を感じてないんでしょう」彩子は不満そうに言った。僕は何と言っていいのか分からなかったが、何か否定的なことを言わなければいけないと思って頭の中で言葉を探したが、ちっとも気の利いた言葉は浮かんでこなかった。
「ほーら、やっぱりわたしのことなんて女だと思ってないんだ。だからそうやってそわそわして、何も言えないのよ。あーあ、悲しいわ、こんな夜は飲まずにはいられないよ」彩子は言った。
「そんなことないよ」僕は冷や汗をかきながら言った。
「ほんとうに?」彩子が尋ねた。
「ほんとだよ。君はすごく魅力的だと思うよ」僕は頷きながら言った。何だかだんだん拷問にあっているような気がしてきた。
「じゃあ、もしわたしが酔っ払って歩けなくなったら、ちゃんとホテルに連れてってくれて優しく服を脱がせて抱きしめてくれる?」
「やれやれ」僕は言った。
「悪いけど、僕はそこまで飛躍してものを考えることはできないよ。僕なんかずっと男子校だったから、まだ女の子とセックスなんてしたことないんだから。うまく駆け引きなんてこと、とてもできないよ」僕はそう言ってワインを飲み干した。だんだん僕も飲みたい気分になってきた。
「へえー、立花君て、まだなんだ」彩子は目を丸くして言った。そして空になった二つのグラスにワインを並々と注いだ。注文した料理が次々と運ばれてきて、テーブルの上は皿とグラスと灰皿で一杯になった。何もこんなに一度に持ってこなくてもいいのに、と思ったが、もう来てしまったものは仕方がない。
「わたしてっきり立花君て、小学生ぐらいからセックスして何人も彼女がいるんだと思ってたよ。だって全然まだって感じがしないんだもん」
「そりゃどうも」僕は何となく傷ついて言った。
「そっかー、まだなんだー」彩子は肩につくかつかないかくらいの栗色に脱色された髪を束ねるような仕草をしながら僕の顔を眺めていた。僕はだんだん惨めな気分になってきた。自分に性体験がないということを、どうしてこんなに簡単に彩子に告白してしまったのかと後悔した。彩子に比べて自分が稚拙な生物であるような気がしてきて、虚しくなった。両手で髪の毛をいじっているために、ぴったりとしたニットのセーター越しに、彩子の乳房の形がはっきりと浮かび上がっていた。
「ねえ、すっごくいいこと教えてあげようか」彩子は頬を赤くしているように見えたが、薄暗い照明のせいではっきりとは分からない。僕は頷いた。
「わたしもね、まだやったことないんだ」彩子は悪戯に笑ってそう言うと、小さく声を出して笑った。僕は何が何だか分からなかった。
「だって、さっき」ワインの酔いも手伝ってか、僕はうまく言葉を見つけることができないでうろたえていた。
「うん、いろんな男の子が誘うのはホントだよ。この前も言ったと思うけど、わたし、結構もてるのよ。でもさ、せっかくの大事なバージンだからさ、すっごくすごく好きな人ができるまではさ、ちゃんと取っておこうと思って。だからわたしもまだなのよ」
「意外と古風なんだね」僕はようやく冷静さを取り戻し、ハンカチで額に浮き出た汗を拭いながら言った。女の子とこんな話をすること自体が始めてで、どう対処して良いのか良く分からないのだ。
「ねえ、わたしに弄ばれちゃうかと思ったんでしょ」彩子はテーブルの上のコロッケにフォークをぶすぶすと突き刺しながら僕の方を見て言った。コロッケはぼろぼろと崩れ、マッシュポテトのようになっているが、彩子はちっとも食べる気配がない。
「うん、ちょっとね」僕は言った。彼女の言葉使いが何だかアンバランスでおかしくて、僕は声を出して笑った。
「さて、食べようよ」彩子は髪の毛をゴムで束ねると、ニットのセーターの腕をまくった。その姿がおかしくて、僕はまた笑った。ボトルが空になってしまったので、僕達はもう一本同じワインを注文した。いつの間にか僕もすっかりリラックスしていて、彩子と同じペースでワインを飲んでいた。「ねえ、ライブはやらないの?」彩子がサラダを頬張りながら言った。
「うん、高校の時のバンドを解散しちゃってから、今日初めてスタジオに入ったんだ。新しいメンバーで。でも、うまくいかなくて、またドラムとベースの奴を探さなきゃいけない。ライブは日程だけが決まってて、もう来月の末なんだけど、メンバーも曲も決まってないから、どうしようかと思ってるんだ」
彩子はしばらくタバコを口にくわえたまま思案気に何か考えていたが、やがてぽつりと言った。
「ねえ、わたしもバンドに入れてくれない?」
僕は飲みかけていたワインを吹き出しそうになった。
「実はさ、わたしキーボードやってるのよ。バイトで弾いたりもしてるから、まあそれなりに何とか使い物にはなると思うよ。高校卒業してから全然活動してないからさ、わたしも何かやりたくてうずうずしてたのよ」
「でも、どんな音楽をやりたいの?」
「そんなの全然気にしなくていいよ。わたしは別にプロになりたい訳でもないし、楽しくみんなとバンドで音が出せればそれでいいから。どう?」
「分かった。僕はいいけど、一緒にやってるギターのポールって奴に聞いてみるよ。多分大丈夫だと思うけど」僕は言った。
「ありがと」彩子は言った。
「ねえ」彩子が微笑みながら僕の方を見つめていた。
「今日二度目のビックリでしょ」
「確かに」僕は言った。彩子は小さな声で笑った。彼女の笑顔をみていると僕はひどくリラックスできた。僕も微笑んだ。
結局僕らは料理を全部平らげ、ワインをフルボトルで2本空にして、デザートにチョコレートムースとコーヒーを注文して店を出た。僕は財布の中にあるお金で足りるかどうか心配だったのだが、彩子がバイト代が出たばかりだからと言って代金を全額払うと主張して引かなかった。最初は僕も抵抗していたが、財布の中には十分なお金がないことを知っていたので、丁寧にお礼をして彩子に奢ってもらうことになった。「ねえ、この貸しは大きいわよ」店を出て地下鉄の駅に向かって歩きながら彩子は言った。時計を見たらもう11時を過ぎていた。
「強請られたり、たかられたりするのかな」僕は言った。外気はひんやりとして、火照った頬を心地よく冷やしてくれた。
「違うよ。次に飲んだときにはちゃんとわたしを酔っ払わせて、ホテルに連れていってくれなきゃダメだよ」
「光栄だよ」僕は言った。
「感謝しなさいよ」彩子は言った。六本木の駅の改札は終電で家路につこうとする人達でごった返していた。薄暗いとことに長くいたせいか、駅の蛍光灯の灯が目にちくちくと刺さるような気がした。青白い蛍光灯の下に出ると、彩子の頬はずいぶんピンク色に染まっていた。僕達は2、3日中にバンドの件で連絡をするという約束をして別れた。雑踏の中へと消えて行く彩子の肩から腰へのラインは誰よりも細く、すぐにポキっと折れてしまいそうだった。
地下鉄の階段を登り、六本木通りの高速道路の高架下を、終電へと急ぐ人々の流れに逆らうようにして僕は歩いた。歩きながら、ひょっとしてポールから電話が入っているような気がした。
部屋に帰ると、予想どおりポールから電話が入っていた。僕は手帳を引っ張りだしてポールの家に電話した。
電話に出たポールの声は予想外に明るかった。僕はポールが意気消沈して電話してきたものと決め付けていたので、ちょっと驚いた。「立花、いいメンバーが見つかったぞ」ポールは弾むような声で言った。
(c) GG / Takeshi Tachibana
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