翌週の日曜日、僕とポールは新しいメンバーと顔合わせをするために、新宿の喫茶店で待ち合わせをした。彩子もメンバーとして参加することになった。僕達はアルタの前に集まって、近くのルノアールで話をした。

新しいドラムは谷口さんという、フリーターで、普段はヘビメタ専門のドラマーだった。谷口さんは僕よりも3歳年上で、黒くて細い髪を背中まで垂らしていて、いかにもヘビメタバンドマンといった感じの服装をしていた。どうしてヘビメタの人はみんな必ず足がゴボウのように細いのだろうと僕は疑問に思ったが、そんなことは当然口には出さなかった。谷口さんは緊張しているのか、それとも元来が無口なのか分からないが、殆ど口を開かなかったが、その代わりにみんなが思わず吸い込まれてしまうような素敵な笑顔を浮かべ続けていた。

ベーシストはポールのお兄さんだった。会って最初に驚いたのが、お兄さんはポールと全く同じ声をしているということだった。お兄さんの方は顔はポールマッカートニーには全然似ていなかったし、でっぷりと太っていて、東京人形制作学院という専門学校を卒業した後、家事手伝いをしているという不思議な人物だった。お兄さんの音楽の趣味は演歌からプログレまで何でもOKとのことだったが、実はお兄さんはアイドルの女の子が一番好きだということだった。彼は伏し目がちにチラチラと僕達のことを観察するようにしながらポールと同じ声で良く喋った。ポールとお兄さんが二人で話していると、僕の頭は痛んだ。どちらがどちらなのか、訳がわからなくなるのだ。

彩子は黒の長そでのTシャツに黒のジーンズという姿で現れた。彩子はニコニコ笑ってはいたが、殆ど話をしなかった。僕が他のメンバーに彩子を紹介すると、まるで借りてきた招きネコのように、ニッコリと上品に微笑み、どうぞよろしくお願いします、と静かに言った。

一通りお互いの自己紹介が終わると、ポールがライブの日程と会場について説明した。ポールのお兄さんが演奏する曲目について質問して、僕が、まだ何も決まっていないと言った。ポールの提案で、各自演奏したい曲を言うことになったが、みんなすぐには思い付かないというので、次に会うときまでにこのバンドで演奏したい曲目を考えてくることになった。それだけ話をすると、僕達は適当に雑談をして、バイトに行くと言う谷口さんの言葉に促されるようにして席を立った。

駅前で他のメンバーと別れ、僕はバスに乗って家に帰ってきた。日曜日の夕方のバスは閑散として、この路線ももうすぐ廃止されてしまうのだろうと僕は思い、少しだけ寂しくなった。夕暮れが迫る大通りを、バスはよろよろと頼りなさそうに走り続けた。僕がバスを降りてしまうと、バスには1人の中年の女性が乗っているだけになった。僕はヘッドライトを灯して走り去る都営バスをしばらく見つめていた。



家へと向かう路地を通り抜けて私道に入ると、みこさんが立っていた。彼女は小さな花束を持ち、電信柱に寄り掛かるようにして僕の家へと入る私道の入口にいた。みこさんは僕に気付くと小さく手を振り、僕の方に走り寄ってきた。
「みこさん、どうしたの?」
「わたしね、立花君が帰ってくるのを待ってたのよ」
「待ってた?どうして?」
みこさんはピンクのバラの花束を僕の前に差しだした。「これを渡そうと思って」みこさんは静かに微笑んだ。
「ありがとう。でもどうして僕に花束をくれるんだろう」
「うん、別に意味は何もないんだけどね。何となく立花君に花束をあげてみたくなったの、今日。天気の良いお休みの日に、ぼんやりと部屋で音楽を聴いてたら、突然立花君にバラの花束を持ってきてあげたくなったのよ。変でしょ?」
「いや、変とは思わないけど、びっくりしたよ」僕は花束を受け取り、受け取ったもののどう扱って良いのか分からずに赤ちゃんを胸で抱くように花束を抱えながら言った。
「立花君、ちょっとわたしにつきあってくれない?」みこさんは言った。
「うん。別にもう今日は何もすることがないから、大丈夫だけど」
「だけど?」みこさんは顔を少しだけ傾けて言った。
「この花束、持ってあるいたら枯れちゃわないかな」僕は花束を覗き込んで言った。淡いピンクのバラが全部で8輪、今すぐにでも大きく花を開きそうな蕾のまま綺麗に並んでいた。
「ちょっとぐらいなら大丈夫よ。根元の方に水を含ませた脱脂綿が入ってるから」みこさんはそう言うと、ごく当たり前のように僕の手をとり、僕を導くように歩き始めた。僕達は、僕が今歩いてきた道を逆戻りして大通りへ出た。僕達は途中の酒屋で缶ビールを4本買い込み、それを僕の鞄の中に押し込めて近所の公園に向かった。辺りはすっかり暗くなっていた。僕達は公園の野球場の隅にある粗末なベンチに並んで腰掛けた。照明設備のないグラウンドには人影はなく、ところどころに水銀灯がぽつんと灯っているだけだった。表通りを走り過ぎる自動車やオートバイの排気音だけが、ここが東京の真中であることを僕に思い出させた。

僕達は缶ビールで乾杯し、それぞれタバコに火をつけた。ビールは喉元を勢いよく降りていって、空っぽの僕の胃の中に流れ込んでいった。良く考えたら僕は朝からトースト1枚しか食べていなかった。

「突然花束なんて持ってきたから、すごくビックリしたでしょ」みこさんは自分のタバコの火を見つめながら言った。
「うん。花束なんて誰かからもらったのは生まれて初めてだもん、驚くよ」
「わたしね、実はちょっと最近困ってるのよ」みこさんは相変わらずタバコの先端を見つめながら言った。彼女のタバコの先端は少しずつ灰が長くなっていたが、みこさんはどうでもいいと思っているのか、あるいは自分がタバコを吸いかけているということをすっかり忘れてしまっているのか、じっと灰の先端を見つめたままじっとしていた。僕が次の言葉を待っていると、みこさんは続けた。
「わたしね、実は今婚約してるの」
「そうなんだ」僕は言った。みこさんの言葉は僕に対して何も訴えかけてこなかったので、僕もひどく中性的に、そうなんだ、と答えた。
「相手はね、わたしより2歳年下の、ミュージシャン志望の人なの」みこさんは続けた。僕はじっとみこさんの顔を見つめた。
「彼は今はまだ全然売れてないけど、きっともうすぐビッグな人になると信じてるの。今は音楽では生活して行けないから、ガードマンのバイトをしたりして、何とか生活してるの。わたし達、結婚してもいいかなって思い始めて、最近になって一緒に暮らそうってことになって、一緒に暮らす部屋ももう決めてあって、彼が今独りでそこに住んでるの」

みこさんはタバコの灰を落とし、静かに煙を吸い込んだ。背筋をピンと伸ばし、遠くを見るような姿勢で細く長く煙を吐き出し、僕の方を向いて小さく唇の端を歪めて微笑んだ。僕は彼女が何を言わんとしているのかがさっぱり分からなかったので、彼女の微笑みをじっと見つめていた。

「わたし、彼のことをすごく好きだなって思ってたの。激しい気持ちじゃないんだけど、彼と一緒にいるとすごく安心できたし、楽しかったし、これからもずっと仲良くやっていけると思ってたの」
僕は黙って頷いた。みこさんはビールを一口飲んだ。
「でもね、わたし、どうも立花君のことが好きになっちゃったみたいなの。いつの間に好きになったのかは良く分からないんだけど、どんどん自分が立花君のことを好きになっていくのが分かるのね。朝に目が覚めると自分でね、ああ、今日もわたしは立花君のことが好きだな、って考えるの。どうしてこんなにどんどん好きになっていくのかは自分でも良く分からないんだけどね」みこさんは僕の目をじっと見て今度はニッコリと微笑んだ。彼女の瞳に遠くの水銀灯の灯が反射していた。僕は彼女に言うべき言葉を探したが、何も出てこなかった。

「でね、わたし、すごく自分でも卑怯だと思うんだけど、立花君のことを好きだなって思いながらも、彼と別れることはどうしてもしたくないの。彼は立花君みたいに若くないし、勉強もあんまりできないけど、とっても優しくて、頼りなくて、わたしがいないときっとうまくやっていくことができない人なの。わたしね、自分がすごく嫌らしいことを考えてるなって思うんだけど、正直言ってどうしていいのか良く分からないのね。でも、自分の気持ちを何もかも立花君に伝えることだけはしておきたいから、一大決心して出てきたの。わたしってバカみたいでしょ?」
僕は黙ってみこさんの瞳を見つめていた。僕はみこさんの小さくて冷たい手を握った。みこさんは僕の肩に寄り掛かった。僕は彼女の肩に手を回し、そっと抱き寄せた。彼女の吐息が僕の首筋にあたっていた。僕達は何も言わずしばらく寄り添ったまま無人の夜のグラウンドを見つめていた。

「立花君には、好きな女の子はいないの?」みこさんは僕の胸に顔を押し付けたままかすれた声で僕に尋ねた。
「今は好きな人はいない。仲良くしてる友達はいるけど」僕は彩子のことを考えながらそう言った。
「わたしのこと、どう思ってた?」みこさんはうつむいたまま言った。
「正直言って良く分からない。もしかしたら好きなのかもしれないし、もしかしたら好きじゃないのかも知れない。あまりそういうふうにみこさんとのことを考えたこともなかったから」僕は言った。
「正直に言ってくれてありがとう。思い切って言ってよかった」みこさんはそう言うと、体を起こして僕を見つめた。みこさんの微笑みを見つめていると、やがて僕の体の中から熱のようなものが込み上げてくるのが分かった。その熱は僕がいつも感じている行き場のない塊のような熱とは違い、僕の体の中心から湧き出してきて、耳たぶや指先にまで熱の篭った血液を勢いよく送り出し続けた。僕は自分の心臓の鼓動が耳元で聞えるように感じた。僕はみこさんの小さな肩を強く抱き寄せ、そのまま目を閉じて唇を重ねた。僕の腕の中にすっぽりと包まれたみこさんの体がピクンと一瞬震え、そして次の瞬間には彼女は体の力を抜いた。僕達は唇を重ねたまま、強くお互いの体を抱き締めた。

僕達はずいぶん長い時間唇を重ねたまま抱き合っていた。僕達はお互いの体を離すと、しばらく黙ってグラウンドを眺めていた。
「立花君、わたし、すごく自分で自分のことが嫌なんだけど、立花君のことを好きでいてもいいかしら」みこさんが静かに言った。彼女の表情からは微笑みが消え、彼女の声は沈み込むように聞えた。
「僕は全然構わないよ。僕もまだ何がどうなってるんだか自分でも全然分かってないから」
「良かった。ありがとう」みこさんはそう言うと、両手を高く上げ、体を思い切り伸ばした。そしてそのまま伸ばした両手を僕の肩に回し、僕達は再び口づけをした。今度は一瞬唇と唇が触れるか触れないかぐらいのキスだった。みこさんがぴったりと体を寄せると、僕は洋服越しに彼女の胸の膨らみを感じることができた。みこさんは体を離すと立ち上がり、もうそろそろ帰らなきゃ、と言った。僕達は空になったビールの缶をゴミ箱に放り込み、公園を後にした。

地下鉄の駅に向かって、僕達は並んで歩いた。みこさんは僕に寄り添うように歩いていた。僕達はほとんど口を開かなかった。

「今日はほんとうにどうもありがとう」みこさんは地下鉄の改札で微笑みながら言った。
「今日はその婚約者のいる家に帰るの?」僕は思わず尋ねた。言葉が口から出た瞬間に僕は猛烈に後悔したが、今更口を出た言葉を捕まえることはできなかった。みこさんはじっと僕の顔を見つめてから、黙って首を横に振った。

「花束をどうもありがとう」僕は手に持った花束を振ってみせた。みこさんは黙って微笑み、階段を降りて行った。

僕は部屋に戻ると、一番大きなグラスに水を入れて、テーブルの上にバラの花を飾った。バラの花を飾ると、いつもは殺風景な部屋が、何だか華やいで見えるような気がした。僕はしばらくバラの花を眺めてから、ベッドに寝転んで本を開いた。どんなに文字を追い掛けても、ちっとも活字が頭の中に入ってこなかった。僕は本のページを開いたまま、みこさんの唇や洋服越しに感じた胸の感触を次々に思い出した。みこさんと抱き合った時に感じた体の中の熱が甦り、僕のペニスは痛いほど勃起していた。僕は部屋の電気を消してみこさんの唇や体や胸の感触を思い出しながらマスターベーションをした。いつもよりもずっと長く続いた射精を済ませると、僕の体の中の熱は少し落ち着いたような気がしたが、僕は部屋の電気を消したままぼんやりと音楽を聴き続けた。スピーカーからはジャニスジ・ジョップリンの声が流れていた。いろいろなことを一つ一つ系統立てて考えなければいけないと思ったが、僕の頭の芯は重く痺れ、様々なことがらが次々と断片的に浮かび上がっては消えて行った。僕は部屋の隅に転がっていたウィスキーをラッパのみして、深く深呼吸をした。時計を見ると丁度真夜中の零時を指そうとしているところだった。





(c) GG / Takeshi Tachibana


back to index

Reach Me

(c) T. Tachibana. All Rights Reserved. 無断転載を禁じます。tachiba@gol.com