新しいバンドのメンバーは翌週から本格的な練習に入った。しかし、僕達の心はまるでバラバラで、とても一緒にバンドをやっているという雰囲気ではなかった。僕達は緊張し、些細なことで口論した。演奏が終わると皆黙り込み、ポールがパラパラと弾くギターのフレーズだけがスタジオに響いた。何かクリエイティブなものを創りだすという雰囲気からは程遠かった。僕達がうまくいかなかった理由の一つには、メンバーの音楽の趣味があまりにもバラバラだったことが挙げられる。ドラムスの谷口さんは完全武装のヘビメタをやりたくてうずうずしていたが、ポールのお兄さんは60年代のフォークを好んでいたし、彩子はハウンドドッグや爆風スランプと言った、当時流行していた日本のポップスを好んでいた。ポールはジェフ・ベックやゲイリー・ムーアに傾倒していたし、僕は僕でツェッペリンやジミヘンにこだわっていた。
僕達は最初の集まりから3日後に各自演奏したい曲のリストと譜面を持ちより、そのあまりのバラバラさに愕然とした。僕達は喫茶店の丸いテーブルに黙って座ったまま、目の前のコーヒーが少しずつ温もりを失うのを観察しているかのように、黙ってうつむいていた。スタジオに入ってもうまくいくはずがないと僕は感じたが、ライブまであと3週間しかなかったし、チケットも既にある程度売れていたので、今更キャンセルすることもできなかった。僕達はぎくしゃくとした雰囲気の中喫茶店を出て、そのままスタジオに入り、重苦しい雰囲気の中で音合わせをした。今までは時間をオーバーしても演奏をやめなかったのに、その日は練習時間が異様に長く感じられた。練習が終わると僕達はスタジオを出ると黙って駅まで歩き、次の練習の予定を決め、それぞれの方向の電車へと乗り込んだ。
ライブが迫っているため、僕達は週3回のペースでスタジオに入ったが、いつまで経ってもバンドの音は一つにならなかった。僕は自分が気に入らない曲の歌詞をちっとも憶えようとせず、適当にハミングしてごまかしていたし、ポールは簡単なリフでミスを連発していた。ポールのお兄さんのベースはチューニングが甘かったし、谷口さんのドラムはいつも走っていた。そして彩子のキーボードは技量が明らかに不足していて、譜面通りに音を出すことに苦心していて、リズムを創りだすには程遠い状況だった。
バンドの練習が始まってから、僕は彩子と遊びに行くことがなくなった。僕達はスタジオで顔を合わせ、練習をし、スタジオから出たところで別れた。僕はいつも彩子を飲みに誘おうと思うのだが、練習が終わるといつも疲れ果てていて、とても彼女と飲みに行く気力が残っていなかった。彩子の方も、僕を誘うことはなく、いそいそと帰り支度をしてスタジオを後にしていった。
僕はポールともあまり話をしなくなった。ライブの具体的な進行や、演奏順、それに何よりもまだバンド名も決まっていなかったのだが、僕達は口を開こうとしなかった。僕達はただ週に3回、いつものスタジオで待ち合わせをして、気まずい雰囲気の中で演奏曲を練習し、重苦しい気分のままスタジオの出口で別れるというパターンを続けていた。
僕はたっちゃんの店にも顔を出さなくなった。たっちゃんの店に行けばみこさんの顔が見れるということは分かっていたのだが、ポールとバンドのことについて話をする気になれなかったし、たっちゃんがライブの話をしてくることは目に見えていたので、僕はうまいことたっちゃんに、誰の悪口も言わずに練習の様子を伝える自信がなかった。
僕は気分転換にアルバイトを探し始めていた。大学には相変わらず真面目に行く気になれず、バンドの練習にも身が入らない状態で、一人で部屋でゴロゴロしていると気が滅入ってしまって仕方がなかったからだ。僕はアルバイト情報誌を買い込み、適当な仕事口を幾つかピックアップした。殆どは六本木のレストランやカフェバーだった。僕はそれらの店に電話をし、近所の文房具屋に行って履歴書の用紙を買ってきて、できるだけ丁寧に履歴書を書き上げた。そして僕は六本木の防衛庁の裏手にある、かなり大きな、「コロニエル」という名前のレストラン・パブで働くことが決まった。時給はまあまあだったが、店の雰囲気がすごく良かったのと、マネージャーが気さくな人で、面接の時から僕はそのマネージャーを気に入ったので、迷うことなくその店を選んだ。1988年当時、日本はバブル経済の狂乱状態にあり、六本木の店はどこもアルバイトの学生を求めていた。だから僕は殆ど何の苦労もなく、簡単にアルバイト先を見つけることができた。
僕はマネージャーに事情を説明し、アルバイトの開始時期をライブの終わった後にしてもらった。マネージャーは明日からでも働きにきて欲しいと最初は文句を言っていたが、結局ライブが終わるまで待ってくれることになった。
アルバイトの口が決まると、僕は精神的に少し落ち着きを取り戻した。僕は今までちっとも憶えようとしなかった曲の歌詞を暗記し、部屋で何度も繰り返し練習をした。ハウンド・ドッグの「フォルテシモ」や、イングヴェイ・マルムスティーンの「Rising Force」を繰り返し唄った。
「あーいがー、すべーてさー、いまーこそー、ちかーうよー」
僕は歌いながら、なんてばかばかしい歌詞にばかばかしいメロディーだろうと改めて思ったが、今更嫌だと言うこともできないので、せめてハウンド・ドッグの歌を、できるだけ正確にコピーしてやろうと決心し、何十回も繰り返し練習をした。練習に疲れると僕は冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出して、窓の外の夕焼けを眺めながらぼんやりとビールを飲み、そしてすっかり暗記できた「フォルテシモ」を鼻歌で唄った。僕の精神状態の変化はバンドのメンバーに著しい影響を与えた。僕は積極的に発言し始め、メンバーが創りだす音に対しても敏感になった。すぐにポールが僕の変化に反応を示した。それまでは空っぽのソロをだらだらと弾いていたポールのギターが、みるみる息を吹き返し、スタジオの中の空気を震わせ始めた。メンバー達は少しずつ打ち解け始め、曲と曲の間にはメンバーの意見交換や、雑談が増えた。彩子の技術も少しずつだが上達し、メンバーとの会話にも参加するようになった。ひょっとしたらうまく行くかもしれない。僕はそう思い始めていた。僕達は相談して、毎回の練習時間を2時間から3時間に増やした。バンドの作り出す音は徐々に熱を帯び、練習終了の時刻が過ぎても、店の人が止めにくるまで練習を続けた。
ライブまであと二週間を切ったある日、僕は練習が終わった後でメンバーを飲みに誘った。谷口さんは用事があるからと言って、いつもの通り素敵な笑顔を残して帰っていった。残りのメンバーと一緒に僕達は中目黒のガード下にある居酒屋で飲んだ。考えてみれば、練習を始めて以来、スタジオ以外で話をするのは初めてだった。僕達はリラックスしていて、お互いの音楽の趣味をからかったり、演奏するときの癖を指摘しあったりした。ポールはソロが始まると首を小刻みに振り、口を半開きにしているとか、ポールのお兄さんは難しいパートに入るとリズムに合わせてベースを上下に揺らすとか、そんな感じで。彩子は僕の隣で静かに飲んでいた。僕と二人で飲むときのような男言葉も出てこなかったし、飲み方もひどく大人しかったが、それでも時々冗談を言って僕達を笑わせていた。
僕達は散々飲み食いをして、駅のホームで別れた。別れ際にポールが僕に、「うまく行きそうだね」と呟き、顔の前で人さし指を真っ直ぐ立ててみせた。僕は微笑み、大きく頷いた。うまくいきそうだ、僕は一人ホームで電車を待ちながら呟いた。
僕は家に帰りつくとまず沢田の家に電話をした。沢田は僕からの電話にひどく驚いた様子で、どうして僕がちっとも大学に出てこないのか、と問いただした。僕は彼の質問を無視し、彼にライブを観に来るようにと誘った。沢田は最初ブツブツ言っていたが、チケットを買ってライブを観に来ると言った。僕が礼を言って電話を切ろうとすると、沢田が言いにくそうに付け加えた。
「立花、お前さあ、彩子とは相変わらずうまくやってるのか?」
「彩子とはそういう関係じゃないんだ。一緒にバンド、やってるけどね」
僕の言葉に沢田はあまり納得しなかったようで、微妙に鼻を鳴らして、フン、と呟いたが、それ以上の深入りはしてこなかった。僕達はお休みと言って電話を切った。受話器を置いてタバコを一本吸うと、僕は今度はみこさんの家に電話を掛けた。バンドが少しずつ軌道に乗りつつあるという自信と、アルコールの酔いも手伝ってか、僕は無性に誰かと話をしたい気分に捕われていた。みこさんの家の番号を回し、受話器を耳にあてていると、急にまだ会ったこともない、みこさんの婚約者のことが頭に浮かんできた。みこさんは彼の家にいるのかも知れない。僕はそう思い、受話器を耳から放そうかと思った。そして僕が耳から受話器を放そうとするのとほぼ同時に、みこさんが受話器をとった。みこさんの声が受話器から聞えてくると、僕はひどく混乱した。丁度彼女の婚約者のことを考え、自分が部外者なんだという意識を持った瞬間に彼女の声が飛び込んできたために、僕はひどく緊張してしまっていた。
「ひさしぶりじゃない、元気にしてたの?」みこさんの声は透き通っていて、そしていつものようにキリッと引き締まった感じがした。
「うん、元気。みこさんは?」なにもそんな中学生の英会話の授業みたいな会話をしなくてもと思いながらも、口が勝手にそう言ってしまう。Yes, I am very fine. And you, Miko?
しばらく無意味な言葉を交換した後、みこさんが切り出した。
「バンドの方、うまくいってないんだって?」みこさんは静かに言った。そこには同情も軽蔑もなく、ごく中立的に事実を確認する、という事務的な空気が漂っていた。
「うん。この前まではね。でも最近は大分良くなってきた。多分うまく行くと思うよ。今日は皆と中目黒で飲んできたんだ」僕はわざと明るく言った。自分では普通に言っているつもりなのだが、必要以上に大げさに抑揚をつけた喋り方になっているのが分かって、苦々しい気持ちになった。
みこさんはほんの一瞬の間を置いてから、「そう、良かったわね」と静かに言った。僕は一瞬自分の心の動きを全て察知されてしまっているのではないかという恐怖を感じた。僕達はそのまましばらく電話越しに黙っていた。電話がどこかと混信しているらしく、受話器の向こうから微かに誰かが喋っている声が聞こえていたが、何を言っているのかはさっぱり分からなかった。
「ねえ、みこさん、明日の日曜日、何か予定ある?」僕が先に沈黙を破った。「もし暇だったら、明日ちょっと会わない?」
みこさんはしばらく黙っていた、肯定的な沈黙、僕はそう感じた。何かを思案しているような柔らかみのある沈黙。
「いいわよ。じゃあ、せっかくのお休みの日だから、立花君がウチの方までいらっしゃいよ」みこさんはきっぱりと、そしてクールに言った。この前公園でビールを飲み、キスをした時のか細い雰囲気はなく、いつもの凛としたみこさんの声だった。「町田にね、ちょっと素敵なライブハウスがあるのよ。わたしも時々行くところだから、明日一緒に行きましょうよ。みんな上手いから、刺激になるわよ、きっと」
「あまりに実力差が大きすぎて、絶望しちゃうかもね」僕がそう言い、僕達は笑ってから、おやすみを言って電話を切った。
日曜日の町田の駅前は、渋谷にも負けないぐらいの凄い人だった。僕はいつもよりも少し早く目を覚まし、ハウンド・ドッグの「フォルテシモ」をヤケクソのようなバカでかい音量で聞きながら身支度を整えた。「おまえのー、なみだーもー、おれをーとめーられーないー」なんてバカバカしい歌詞なんだろう、僕は一人でそう呟いた。二週間後には僕はステージの上でみんなの聴いている前で、この曲を気持ち良さそうに唄わなくてはならない。僕はそう思ったが、今までのように気が重くなることはなかった。なるようになるさ、僕はそう呟き、ステレオのスイッチを切って部屋を出た。
僕は小田急線に乗って町田へと向かった。急行電車の中には少年野球のユニフォームを着込んだ小学生が10人ほど固まって座っていた。彼らは水色のユニフォームに野球帽を被り、大きなバッグやバットケースを持ってわいわいと騒いでいた。彼らは何かを甲高い声で言いあってはジャンケンをして、負けた男の子が席を立つというゲームに興じていた。僕は彼らの行動をぼんやりと眺めていたが、ふと無意識のうちに「フォルテシモ」のメロディーをハミングしていることに気付き、「やれやれ」と呟き、苦笑いをした。野球帽を被った少年のうちの一人が、僕の方をじっと見つめていた。僕はまた「やれやれ」と言いそうになったが、少し恥ずかしくなって、窓の外に視線を移した。春というよりも初夏というぐらい気温は上がっていて、強い太陽光線が木々の緑をくっきりと照らし出していた。
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