僕は明らかに躊躇していた。今トイレで指から血を流したギタリストが僕に投げかけた言葉をどう判断し、処理すれば良いのかが分からなかった。目の前に頬を僅かに染めて微笑むみこさんが座っている。彼女にあのギタリストが言った言葉をそのまま伝え、笑い話にしてしまうこともできるのではないかとも思ったが、僕はそうするだけの勇気を持たなかった。僕が事実をそのまま伝えた時、みこさんが動揺したり、怒ったりした場合、僕には事態を収拾する自信がなかった。

僕は従って薄ボンヤリとした微笑みをバーボンで火照った顔に浮かべ、ずいぶんと古くはなっているものの、作りのしっかりとした椅子に座り、「マスターと何を話してたの」と尋ねることにした。
「うん、わたし昔は結構この店に良く来てたのね、若かりし頃。久し振りに顔を出したんで、マスター懐かしがって話しかけてきたのよ」みこさんはマスターの方をちらりと見やりながら言った。
「へえ、そんなにしょっちゅう来てたんだ」僕は平板な声で言った。自分の口から発せられる声が、まるで自分のものではないように聞こえ、僕は自分の混乱がみこさんに伝わってしまったのではないかと不安になった。
「そう、わたしこう見えてもロック少女だったのよ」みこさんは歯を見せて笑った。
「立花君にはまだ言ってなかったけど、わたしも実はバンドをずっとやってたの。もう10年近くになるかな。ただ最近はみんな仕事が忙しくなっちゃって、ここ1年ぐらいは殆ど練習らしい練習もしてないわね。立花君、レインボーってバンド知ってる?」
「名前だけはね」
「そっかー、やっぱり年齢の差かしらね。わたしの年代でちょっとロックやってる子だったら、レインボー知らない人なんていないんだけどね」みこさんはバーボンのグラスの中に浮かぶ氷を指でつつきながら言った。

銀のトレーにI.W.ハーパーのボトルと新しいグラスとアイスぺールとミネラルウォーターを乗せたマスターが僕達のテーブルにやってきて、無造作に僕の前に置いた。髭のマスターを見上げると、マスターは僕の肩をポンと叩き、「これは店のおごりだよ」と言った。僕は返事に困ってみこさんの顔を見やった。みこさんはマスターに向かって微笑み、「ありがとね」と言うだけだった。
「いいのかな、もらっちゃって」僕は言った。
「いいんじゃない、せっかくおごってくれるって言うんだもの。飲まなきゃ損よ」みこさんはそう言うと、新しいオールドファッショングラスに氷を放り込み、新品のI.W.ハーパーの封を切り、勢いよくグラスに注いだ。なみなみと注がれたバーボンの琥珀色の中に、頼りなさ気に氷が浮かんでいる様子を僕はじっと見つめていた。



なみなみと注がれたバーボンを、苦労して舐めるようにすすっていると、再び店の中の照明が落ちた。ふと気付くといつの間にか店の中は満席で、カウンターの脇の方にはずらっと立ち見の客まで入っていた。僕が後ろを振り向いて立ち見の客達の姿に驚いていると、みこさんが「次のバンドが今日のメインアクトよ」と囁いた。

照明が落ちた店内に、あちこちの客が吸うタバコの先が鈍くオレンジ色に輝き、ゆらゆらと揺れたり、じっとその場にとどまったりしていた。夜光虫のようだと僕はぼんやりと思う。

カウンターの脇からメンバーが入ってきた。固い靴底の音が、鈍く床に響く。客席から拍手が湧く。ステージにはアンプのスイッチの灯だけが小さく赤く灯っている。

人込みにおける奇妙な静寂が続く。客の息遣いやカウンターの奥でマスターが誰かと小声で喋っている声が妙にはっきりと聞こえる。僕は焦れて、グラスのバーボンを一口飲んだ。原液に近い、濃くて微かに粘質を持つ液体が勢いよく喉を流れ落ちて行き、僕は喉が焼けるのを感じた。鼻から息を抜くと、華やかなバーボンの原液の香りが鼻腔を通り抜け、僕の目が少しだけ染みるように感じた。流れ込んだバーボンの原液は僕の胃の中に小さな炎を灯し、体が温まり始めた。血液は勢いよく体中を駆け巡り、鼓動が速くなった。僕は自分が酔っているのだと思った。呼吸を整えようと意識的にはっきりと息を吸ってみたが、店の中の空気が妙にざらついているように思えた。自分と外の世界との間に薄い膜が張っているように思え、人々の発する小さな音が不規則に頭の中で反響したり、ぱったりと聞えなくなったりした。ステージ上に詰まれたMarshallのアンプのオレンジのライトがゆらゆらと揺れていた。プラスチックのカバーの中で小さく光るオレンジ色の灯は小刻みに揺れ続け、僕はその灯に見入っていた。

ドラムのカウントなしで、いきなり演奏が始まった。演奏が始まるのを待ちかねていたかのように七色のスポットが一斉にステージを照らし出し、僕は一瞬目をきつく閉じた。スポットに照らされたステージの上では、アンプのスイッチランプのオレンジ色はまるで魂の抜けた亡骸のように、どす黒く矮小にステージ上に横たわっているかのようだった。

曲はレッド・ツェッペリンの「グッドタイムス、バッドタイムス」だった。僕は彼らの演奏の素晴らしさにようやく我に帰った。ヴォーカルは鋭さと深さを併せ持つような、今までに耳にしたことのないようなハスキーヴォイスで、艶やかな長い黒髪にパーマをかけ、細い腰から下をぴったりとしたレザーパンツで覆っていた。彼はマイクスタンドを鷲掴みにして、時折レザーパンツの中に隠されている自らのペニスを強調するかのように腰を振り、扇情的に、そして妖しく僕の耳の中へと侵入してきた。
ギタリストは長くてきついパーマの掛かった前髪で自分の顔を隠すように、うつむき、時折腰でリズムをとるような、ひきつるような仕草を見せる他は殆ど動くことなく、野太いリフを奏で続けていた。唯一髪が短いベーシストは、一人ベージュのコートを羽織り、その下には襟の付いた白のシャツが覗いていた。彼はサングラスを掛け、殆ど顔も体も動かさずに、確実なリズムと荒々しい低音の野獣を演じ分けていた。
ドラムスは上半身裸で、浅黒い筋肉質の肌に汗を浮かべていた。髪は黒く、背中までの長さがある。髪を振り乱しながらも、正確で攻撃的なリズムを作りだしていた。僕は彼のドラムに一瞬で惹き付けられた。僕は今まで彼の叩くようなドラムを聞いたことがなかった。チューニングが特殊な訳でもないし、特に変わったドラムセットを使っていた訳でもないのだが、彼が創り出すリズムと音色は、このバンドの持つ魔力を一気に増幅するような作用を持っていた。

フィルの度にドラムスの裸の上半身から汗がキラキラと輝きながら飛び散った。4人の作り出す重厚な音は僕の両耳から入り込み、体を引っかき回し、そして僕の指先や目を犯した。リズムは正確に刻まれているのに、全体が大きくうねり続けているように感じ、僕は目の前に奇妙な模様が現れるのを感じた。アルコールにより増幅された僕の血流は激しく体内を跳ね回り、僕の体は重く痺れ、沈み込むように椅子にもたれたまま、僕はステージに見入っていた。

曲は「ハート・ブレーカー」、「移民の歌」、「レモン・ソング」と続いた。僕は時折テーブルの上のバーボンのグラスを口に運び、原液に近い液体を体の中に流し込む以外の一切の行動を放棄していた。ステージの上でヴォーカルは唄い、叫び、そして妖しくマイクスタンドを操っていた。7色のライトと、一段と眩しいスポットに浮かび上がるステージがせり出すように僕に迫り、僕は微かな吐き気を感じていた。逃げ場がない。彼らの音によって僕は丸裸にされてしまう。僕の体内に残っている理性が僕を彼らから隠そうともがいているが、彼らの音はそんな僕のちっぽけな羞恥心を嘲笑するように、僕の心を裸にしていく。僕の掌にはべっとりと冷たい汗が現れ、二の腕から背中にかけてはびっしりと鳥肌が立っていた。口の中がからからに乾き、僕は勢い良くバーボンを流し込み、喉が焼ける感覚のおかげでかろうじて意識を保っていた。

ふと演奏が途切れた。スポットもカクテルライトも全てが消え、耳の奥に残る残響音が僕の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。僕は自分が呼吸を止めていることに気付き、意識的に深く息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。僕はみこさんの方を見た。彼女はさっきまでと同じように、頬杖をついて僕の方をちらりと見た。彼女の瞳が暗い店の中でギラリと輝き、僕は身震いをした。みこさんはゆっくりと立ち上がり、僕の隣の椅子に移動してきた。彼女は僕の手を握り、そしてその手に力を込めた。彼女の手も汗ばんでいて、冷たかった。僕はみこさんの肩を抱き寄せ、彼女の唇を吸った。彼女の舌が滑り込んできて僕の舌に絡み付いた時、次の曲の演奏が始まった。「ユーシュックミー」だった。

ごつごつした指が滑らかな女の肌をまさぐるようなベースのブルースコードに導かれ、ステージは赤のライトに染まる。ゆっくりとうねるブルースのリズム、長く細く糸を引くように喘ぐギターのチョーキング、僕達の神経をゆっくりと撫で上げるヴォーカル、赤く明滅するライト、浮かび上がるドラムスの裸の胸板も赤く染まり、飛び散る汗も鮮血のように赤い。僕の口の中ではみこさんの舌がくねくねと動き回り、彼女の手は僕の胸から腹へとゆっくりと降りていく。僕の耳と目はブルースに犯されていて身動きが取れない。ヴォーカルが耳をつんざくようにヒステリックな叫びを上げる、ギターがそれに続いてすすり泣くような金属音を立てる。僕の右手がみこさんのスカートの中に忍び込もうとしてもがく。みこさんは両ひざで僕の手を挟み込むようにして僕の手の自由を奪う。曲が「デイズドアンドコンフューズド」に変わる。みこさんは唇を離し、僕は自分の唇を舐める。口紅の油の匂いがする。メンバーが赤と碧のライトの中で紫色に浮かび上がり、ブルースのリズムが気怠く僕の体を包み込む。僕はみこさんを見る。みこさんは僕を見ている。瞳が紫色に染まっている。ゆらゆらと瞳の中で何かが揺れている。延々と続く気怠いブルースが僕達を包んでいる。ヴォーカルは激しく腰を振り叫びを上げる。ヴォーカリストの叫びと同時にリズムが変わりアップテンポになる。僕は激しく勃起する。ドラムスの紫の汗が飛び散り、ベースは僕の耳を犯し続ける。みこさんの瞳はきらきらと紫色に揺れる。掻き毟るような激しいギターに僕の目は眩む。みこさんがテーブルの下から手を伸ばして服の上から僕のペニスに触れる。僕は膝に挟まれた掌でみこさんの腿をひっかく。下着の中で僕のペニスがイルカのように跳ね回る。みこさんが膝の力を緩め、僕の右手はパンティーストッキング越しに彼女の下着に辿り着く。激しいフィルが続き、ギターは跪きながら激しくチョーキングをする。僕の指は熱く湿気を持つ彼女の下着の上をなぞる。ヴォーカリストは夢遊病者のように長く叫び続けている。口の中がカラカラに乾いている。みこさんの指がズボン越しに張り裂けそうな僕のペニスをなぞり続ける。僕は自由な左手でバーボンのグラスを持ち、半分以上残っていたバーボンの原液を一気に流し込む。みこさんの太股が僕の右手を挟み込む。天井のライトがぐるりと回転し、みこさんが僕の耳元で何か囁く。みこさんの熱く湿った吐息が僕の耳に触れ、ヴォーカルは腰を前後に激しく振り喘いでいる。みこさんの太股にきつく挟まれた僕の掌は汗をかき、みこさんのパンティーストッキングを湿らせている。ドラムは体中の汗を弾き飛ばし、ギターとベースは弦を掻き毟る。みこさんはバンドのリズムに合わせ僕のペニスを刺激する。ステージがぐらりと揺れる。僕の指はみこさんの下着の上をひっかくようにくすぐっている。天井がゆっくりと落ちてくる。呼吸が止まる。ヴォーカルの激しい叫びと共にステージは真っ白に浮き上がり、僕の視界は暗くなる。長く続く射精の瞬間のようにバンドは渾身の力を込め、そして曲は終わり、周囲は再び闇に包まれ、黒と紫と赤が混じり合う透明な青い残像の中にみこさんの瞳がゆらゆらと揺れ、彼女の声が鈍くメタリックな残響音の中から聞えてくる。
「出ましょうよ」みこさんの声はひどく遠く、曖昧に聞えた。僕は言葉を失い勃起したペニスを抱えたまま何度も頷いたが、体は痺れ視界は暗く、身動きができなかった。バンドは次の曲を始めていたが、僕の耳はすでにブルースの音で徹底的に犯されてしまい、小気味よい「リビング・ラビング・ウーマン」を受け入れることができなかった。

僕はみこさんに支えられるようにして立ち上がり、彼女の肩につかまってフラフラと店の外に出た。途中何度も他のテーブルにぶつかったり、立ち見の人の列に突っ込みそうになった。首の後ろ辺りが痺れていて、何もかもが重く、そして濁っていた。

みこさんがマスターと何か話している間に僕は店を出て階段をずるずると滑り落ち、何とか表に出た。僕は路地に脚を投げだして座り込んだまま、頭を店の外壁にもたれかけさせて何とか支え、タバコを一本吸った。乾いてざらざらした口の中に煙を吸い込むと、胃がせり上がり痙攣した。僕は猛烈な吐き気を感じた。視界はぐらぐらと揺れ、歩くことができなかった。僕は這って道路脇の排水溝に辿り着くと、口を大きく開いて吐いた。胃の痙攣は何度か続き、その度に僕は涙を流しながら胃の中のものを吐き出した。中年の男が声をかけてきた。「おい兄ちゃん、大丈夫か」、僕は左手をあげて「大丈夫」と示した。綺麗に磨かれた革靴が僕の視界にしばらくとどまっていたが、やがて男は「気をつけろよ、あんまり羽目外すな」と言い残して去って行った。僕は道路脇に四つん這いになったまま、痙攣が去って行くのをじっと待った。

しばらくすると痙攣は納まり、視界に明かりが戻ってきた。僕は電柱に手をついて立ち上がり、よろめきながら自動販売機でポカリスウェットを買った。冷たいポカリスウェットが心地良く喉を通り、吐いてヒリヒリした口の中に微かな甘味が広がった。僕は半分ほどを一気に飲んだが、そこで再び強い吐き気に襲われた。僕は今飲んだばかりのポカリスウェットを全部吐き出したが、今度の胃の痙攣はすぐに納まり、痙攣が去った後僕の視界は非常にクリアーになっていた。僕は残りの半分のポカリスウェットをゆっくりと何度かに分けて飲み、チューインガムをポケットから出して噛んだ。そしてようやく僕はみこさんがまだ店の中にいることに気付いた。僕は頭を振り、よろけながら手摺りにつかまって階段を一段ずつゆっくりとのぼった。店の中からはバンドの演奏の音が流れ出ていた。

階段を半分ほどのぼったところで、みこさんが店から出てきた。みこさんは手摺りにつかまり不格好に階段にしがみついている僕の姿を見て「大丈夫なの」と嬉しそうに微笑んだ。僕はみこさんに支えられながら今のぼってきた階段を一緒に降りた。みこさんも相当酔っているようで、二人揃って階段から転げ落ちそうになった。

僕達はゆっくりと蛇行しつつ、タバコを吸いながら歩いた。僕は自分がどこに向かって歩いているのか全く分からなかったので、みこさんの進む方角に黙ってついて行った。

駅前のタクシー乗り場で僕達はタクシーに乗り込んだ。みこさんは運転手に行き先を告げると、僕に向かって言った。
「わたしの家でもうちょっと飲みましょうよ」





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