Main Man / T-Rex
Kanon / George Winston / Johann Pachelbel
車内はそれほど混んではいなかったが、ちらほらと釣り革につかまって立っている人もいた。
静寂を打ち破る叫び声のように、
羽化する蜉蝣の透き通った翼のように、
踊り疲れたハイヒールを引きずり駅を目指すオンナのように、
汗と唾液が混ざり合う時に聞える音のように、
風化した石が崩壊するように、
コンクリを突き破り雑草が伸びるように、
鬱蒼と茂る林の中を曲がりくねりながら流れる川のように、
カブトムシが死んだ後の水槽にひっそり咲くタンポポの花のように、
喘ぎ声と共に軋む恥骨の振動のように、
ボルドーのオーク樽で眠り続けるワインが発酵する香りのように、
北の空にそびえるカリント工場の煙突のように、
水平線が爆発したかのように現れる朝日のように、
呼吸が止まるほど美しく微笑むあなたの瞳のように、
橋脚のふもとに段ボールを敷いて暮らす老人の白濁した年輪のように、
赤い行き先表示を灯しながら走り去る無人の都バスの光跡のように、
踊るように歩きながら歌い続ける浮浪者のように、
もつれあうあなたが発する金属音のように、
濡れる乳房と筋肉の触れあう安らぎのように、
誕生を祝福する天使の声を孕んだ熱波がこの街を焼き付くし、
降り続く純白の灰が街を冷やしている、
降り積もった灰はやがてコンクリを侵食し、
街は朽ち、グラスファイバー製の生命体を育み、
冬が訪れようとしている。
肩を寄せ合わないと、命が凍る。
寒い夜には。
地下鉄に乗っていた。
木曜日、午前10時30分。
巨大なモーターが軋む音が無限に続くトンネルに反響して、三半器官をいたぶり続けていた。
話しをしているヒトは誰もいない、無機的な機械音の重い連続音。
一瞬、何かが聞えたような気がして周囲を見回す。
青白い蛍光灯に照らしだされる人々は怯えるようでもあり脱力しているようでもあるが先程から何の変化もない。
いよいよ耳がおかしくなったかと諦め読んでいた本に眼を戻し、数行読み続けると再び外耳を何かがかすめて通った。
車体が小さく揺れてブレーキがかかる。カラダが重心を失って前方に傾き、文庫本から左手を離して手摺を掴み、重心を保つ。
黒鉄色の連続だった車窓から車内よりも明度の高い蛍光灯の照明が飛び込み、車輪が悲鳴を上げ、10両編成の巨大な鉄のカタマリが停止した。
ドアが開き、人々が移動する。一瞬、モーター音が止み、機械的に響くプラットフォームのアナウンスの間隙を縫うようにハッキリと、メロディーを伴うドイツ語の子音が聞こえた。
オンナの声だった。そう聞えた。再び周囲を見回すが、それらしい人影はどこにも見当たらない。体格の良いサラリーマンが数人固まって立っている。中年太りの腹の向こう側が見えない。
本を閉じ周囲を見回す僕の耳に再びメロディーが聞こえてきた。ドアが閉まる。ガクンという鈍い衝撃を伴い、僕のカラダがさっきとは反対側に傾こうとする。
モーター音が高くなるなか、メロディーは先ほどよりも遥に高くハッキリと発音され、子音の多いドイツ語の破擦音の連続がはっきりと聞き取れるようになった。
モーター音の隙間を見つけるように、滑らかな音階と破擦音の連続が車内を徐々に包み始める。
線路のつなぎ目が発する盲目的なリズムを完全に無視するような優雅なメロディー。
音源を求めて眼を開き、耳を澄ます。
5メートルほど先の椅子に座った初老の女性は眼を閉じ足を組み、腕を乳房を抱えるように重ねていた。
しっかりと眼を閉じているのに口元が笑っているように動く。カラダを若干くねらせ、右肩を前に出すような仕草を二回ほど繰り返し、大きく発音した。
5メートル離れている地下鉄の車内でハッキリ聞き取れる声量で歌っているのであるこの女性は眼をしっかりと閉じて両腕で豊かな乳房を支えるようにして髪にはずいぶん白髪が目立ちビトンの小さなバッグを膝の上に乗せたまましっかりとハッキリとドイツ語で歌っているのである。黒のニットのタートルが蛍光灯の中で浮かび上がる。
女性の両隣の人達はジロジロ見たり怪訝そうな顔をしたり逃げるように立ち去ったりしないでじっと眼を閉じて座っている。でも眠っているようには見えない。聴いているんだきっとそれとも轟音にかき消されて聞えないのかそれともどうでもいいのか。
悲しそうだが力強いメロディーと発音だった。僕は眼を彼女に固定したままずっと聴いていた。ドイツ語は全然分からないから何て言っているのかは全く分からないがイタリア語でもフランス語でもなくあれはハッキリとドイツ語だった。
車体が今度はずいぶん慎重に減速を始め、僕が降りる駅のフォームが現れた。僕は初老の女性の閉じた瞼の外側に刻まれる皴とそこから口元に続く皮膚の動きを眺めていた。
列車が止まるのとほぼ同時に彼女は眼を開いた。いきなり眼が合ってしまった。彼女の眼は輝いて、光を放っていた。濁った眼の老女ではなく、コンクリの街を縫う列車を翻弄する歌姫のように見えた。
ドアが開く。彼女は開いたときと同じ瞳の色で僕に全開の微笑みをくれ、勝ち誇るように地下鉄から降りていった。
もう少しで僕は電車から降りそこなうところだった。
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