小説・フィクション書評

風の歌を聴け by 村上春樹 〜 旅はここから始まった 村上春樹デビュー作

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村上春樹さんのデビュー作、「風の歌を聴け」という小説をご紹介します。

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こんにちは。ビジネス書作家・ブロガー・心理カウンセラーの立花岳志です。

当ブログでは、皆さんが人生をより自由に、より美しく、より楽しく生きるための情報やメッセージをシェアしています。

学び進化することも、より楽しい人生の構成要素の一つと僕は考えています。

学ぶために読書をし、読んだ本を紹介することも、このブログのメインコンテンツの一つ。

今回は僕が20代の頃に出会い、今までに何十回となく読み返してきた村上春樹さんのデビュー作「風の歌を聴け」のご紹介です。

最初は文庫本で買ったのですが、あまりにも何度も読み返してボロボロになってしまい、単行本で買い直したほど好きな作品です。

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あの「僕」が誕生した記念すべき作品

村上春樹さんの初期から中期の作品群の特徴としてまっさきに挙げられるのが、物語が「僕」という主人公の一人称で語られる点だろう。

作品が変わっても、多くの場合主人公は一人称の「僕」であることが多く、そして主人公は名前を持たないケースも多い。

この「風の歌を聴け」は、続く「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」、そして「ダンス・ダンス・ダンス」へと続く四部作の一作目にあたる。

この四部作を通じて主人公は一貫して「僕」であり、そして「僕」は作品の中で名前を持たないままストーリーが展開していく。

連作ではない他の小説群においても、多くの場合主人公は「僕」であり、僕の口癖や行動パターン、性癖などは作品をまたいで共通している。

読者である僕、立花岳志は、作品に登場する不器用で生真面目で引っ込み思案な「僕」というキャラクターを、作者である村上春樹さん自身に重ねていく。

しかも、後述するが、作品中で村上春樹さんは「僕 = 村上春樹」であるという誘導を明確に行なっているため、一層我々は「僕」というキャラクターに引き込まれて行くことになる。

この「風の歌を聴け」は、村上春樹作品における「僕」という共通キャラクターが誕生した、記念すべき小説なのである。

実在しない小説家「デレク・ハートフィールド」

この作品のもう一つの注目ポイントは、語り部として「小説家 村上春樹」が冒頭、エンディングを含め何回も一人称「僕」として語り、いかにもこの小説の舞台裏を語るかのような役割を担っている点だ。

小説の舞台であった1970年8月ではなく、この小説が書かれた1979年に、小説を書いた「僕」として登場する。

そして彼がいかにも事実であるかのように語っているのが、小説家「デレク・ハートフィールド」だ。

村上春樹はデレク・ハートフィールドという作家に小説の多くを学び、彼から影響を受け、アメリカに渡って彼の墓参りまでしたと書いている。

具体的な作品名の原題、日本語タイトル、そして出版者名までが引用風に書かれ、ハートフィールド研究をしている文学者の解説までが引用されている。

だから、一番最初に「風の歌を聴け」を読んだとき、僕は当然デレク・ハートフィールドという作家が実在すると思った。

そして村上春樹さんにそこまで多大な影響を与えたデレク・ハートフィールドの作品を読んでみたいとも思った。

しかし、実際はデレク・ハートフィールドという作家は実在しない。

小説家村上春樹が述懐する彼自身の小説家としての軌跡のパートも、フィクションとしてのこの作品の一部なのである。

「あとがきにかえて」という、小説本体とは分離された巻末のパートにも、ハートフィールドのことが書かれている。

普通「まえがき」や「あとがき」は、作品の紹介や読み終えた読者に「作者」が伝えたいことを書く。

しかしこの「風の歌を聴け」では、冒頭から巻末まで、すべてが作品として構成されている。

「一人称」の「僕」が、1970年の僕なのか、1979年の僕なのか、それとも小説家村上春樹なのかが判別しにくく作られている。

作品の主人公と小説家村上春樹のキャラクターが意図的にミックスされるように構成されている。

この主人公と作者の微妙なミックス感が、後に「ノルウェイの森」の爆発的なヒットの起爆剤の一つだったと僕は感じている。

2つの時空と複数の語り部による素早い展開

この作品のメインの物語は1970年8月の神戸を舞台に進む。

しかし、上にも書いたとおり、作者村上春樹的なもう一人の語り部が、作品を書いている1979年の「僕」としてしばしば作品中に登場する。

そして、1970年の「僕」と1979年の「僕」は同一人物であることが説明されていく。

1979年の「僕」が「村上春樹」であるとはひと言も書かれていないわけだが、暗黙のうちに、「僕 = 村上春樹」という図式に読者は誘導されていく構成である。

どこまでがフィクションで、どこからがリアルなストーリーなのか。

敢えてその点を曖昧にすることで、作品と同時に作者にも感情移入しやすい構成になっている。

ほかにも、子供の頃の「僕」の視点、「僕」と会話をするラジオD.J.が突然一人称で語り始め、視点が切り替わる。

さらに「僕」の友人である「鼠」という人物が書いた小説の主人公の視点も加わり、それらが映画のカットが切り替わるように行ったり来たりする。

このスピーディーで軽快な展開と、それとは裏腹の寂しく悲しい、そして行き場のない物語の内容のギャップがこの作品の醍醐味の一つだろう。

どこにも行き着かない物語 村上春樹ワールドの誕生

明確な始まりと終わりがない物語。

それも村上春樹さんの小説に良く見られる特徴の一つだと思う。

この「風の歌を聴け」も、起承転結のような明確な「始まり」と「終わり」が設定されていない。

ヒロインとして登場する女の子との関係も、ふわっと始まり、そしてどこにも行き着かずに、終わったのか終わらないのかも良く分からない形で作品は終わってしまう。

作品の中で登場人物たちは、それぞれの人生を生き、あるタイミングで知り合い、語り合い、男女は抱き合い、そして何となく離れていく。

「日常をそのまま切り取った」といえばそうなのだろう。

それが当時「都会的」といわれた理由なのかもしれない。

劇的なクライマックスがあるわけでもなく、奇想天外なエンディングがあるわけでもなく、淡々と始まり淡々と終わっていく。

でもそこに、独特の読後感、ちょっとした寂しさと懐かしさの入り混じったような感情をもたらす。

そして何度も読み返したくなる。

それが僕にとっての「風の歌を聴け」なんだと、いまこの文章を書いていて思った。

まとめ

村上春樹さんにとってのデビュー作である「風の歌を聴け」。

この作品と、2作目となる「1973年のピンボール」は、彼がまだ専業作家になる前、ジャズ・バーを経営し店にも出ていた頃に書かれたものだ。

時間と体力の制約が大きい中で書かれたため、本人はこの2作品は未熟と捉えていたそうで、外国語版の出版も長らくされてこなかった。

しかし、読者にとって、少なくとも僕にとって「風の歌を聴け」は、村上春樹作品の原点、出発点であり、その未熟さも含めて素晴らしい魅力を持った作品だと感じている。

Wikipediaによると、単行本と文庫本で180万部も売れているとのことで、多くの読者も僕と同じように感じているのではないだろうか。

「風の歌を聴け」、素晴らしい作品です。

次のページに、2011年に書いた書評があります。気になる方は併せてどうぞ。

「風の歌を聴け」のチェックはこちらから!

風の歌を聴け

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