凍える夜に 思うこと  抱擁編



1999年2月16日(火) はれ 

平野啓一郎、「日蝕」が気になって、思わず文藝春秋を買ってしまった。芥川賞受賞を派手に書き立てた車内広告に踊らされたのか、僕は。

まだ読み始めたばかりなので何とも感想は言いにくいのだが、ちょっと京極夏彦に近い感性というか執着心を持った人ナノかな、などと感じてみたり。いずれにしても、僕とは対極的なセンスの持ち主だと思う(もちろんそれが悪いと言っているのではない。違うということは良いことだ)。

それにしても、23才の若者(僕から見ても若者だよね23才だったら)の受賞で、石原慎太郎、大江健三郎、村上龍と並べて評されていたけれども、これらの三者とはまったく違うスタイルの作品だな。前者はいずれも時代を生きる若者の暴走みたいなところがあったが、平野啓一郎の作品は(まだほんのちょっとしか読んでいないけれども)、中世ヨーロッパにおける神学みたいな切り口だから、これはもう全然違う。

わざと文体や漢字の使い方を難解にしているのは無意味ではないかと思ったりもする。京極夏彦の場合は大戦後すぐの日本での話だから時代背景に合わせた言葉遣いということで納得できるのだが、中世のパリだのフィレンツェだのの記述をするのに、難解な当て字を使う必要が果たしてあるのかないのか。

まあ、ブツブツ言うのは読み終えてからにしよう。

実は今、猛烈にワクワクしながら読んでいるところなのだ。

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文学の世界には、新人賞や、それに続く登竜門的意味合いの賞(芥川賞、直木賞)はあるけれども、日本レコード大賞みたいな、いわゆる「今年はあんたがほんまに一番やでえ(何故似非関西弁なのかは不明)」という賞はないんだろうか。

読売文学賞とか、野間文芸賞(だっけ)とか、あることはあるのだろうけれども、それぞれ出版社単位の賞ばかりで、すべてを統括して今年一番を決める、みたいな賞って(それに権威があるかどうかはまた別問題として)ないのかな。

そんな賞を作るとなると、選考委員と候補者がケンカになっちゃうからダメなのだろうか。たとえば、選考委員が井上ひさしと伊集院静と村上龍と内田春菊で、候補者に大江健三郎と五木寛之(おえ)なんていう図式だったら、かなり面白いことにはなりそうだけど、ダメだろうな、これは。

受賞すると「ネスカフェ・ゴールドブレンド」のCMに出られて、「違いが分かる男」になれるっていう特典がついたとしても、やっぱりダメだろうな。女性陣からクレームがくるだろうし(女性は何故か「ゴールドブレンド赤ラベル」に回されてしまうのだよな、ノンカフェインのヤツね)、宮本輝をどうしてくれようという文句も中島らもあたりから出るかもしれん。

ああ、何だか妄想がちになってきたのでこのへんで〆。

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村上龍、「コックサッカーブルース」、読了。








 

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