思うこと



1998年1月20日(火)


Here Comes the Sun / The Beatles


風を掴むって言う感じ、分かるだろうか。

今日電車の中で、ふとそんなことを考えていた。風を掴むというのは、言い換えれば、勢いに乗るというくらいの意味なんだけど、風を掴むって言う方が、今の気分に近いような気がする。

同じような目標を設定し、自分で日々努力しようと決心しても、なかなか思うように続けられない時がある。他の人はどうか分からないけれど、僕にはそういうことって本当に良くある。

例えば、無駄遣いを防ぐためにきちんと家計簿をつけようと決心する。でも3日坊主で終わってしまう。健康の為に運動をしようと決心する。決心した日に限って接待で飲まされて、へべれけで家に帰り、倒れるように眠ってしまい、次の日は二日酔いで運動どころではなくて、結局いつの間にかすっかり運動のことなんて忘れてしまう。

ところが、ある日、ふっと急に肩が軽くなり、今まで散々うまくいかなかったようなことを、何の抵抗もなくすんなりと実行できるようになる。もちろんそれまで失敗した時とは方法が改善されていたりする訳だけれども、とても静かに、まるでずっと以前から行なわれていた、歯磨きみたいな習慣であったように、何かが動き出す瞬間。その「ふっ」という感じが、風を掴むってこと。

最近僕は、色々なことをやってみたくて仕方がない。28歳にもなって、まるで高校生みたいにギラギラと好奇心を溢れさせている。仕事のことももちろんだし、遊びにしてもそう、あとは、これからの自分の生活についてもそう。色々なものがとても新鮮に見える。

去年の今頃、僕がこの部屋に引っ越してきた時には、僕はそんなことは全然考えていなかった。時間があれば体を休めて、休日には部屋でのんびりすることばかりを求めていた。通勤時間は眠るための時間であり、本を読む気にも全然ならなかった。

僕は疲労困憊していたんだと思う。そして、僕は風が吹いていることにさえ気付かなかった。

この部屋に越してきて、僕はようやく少しずつ自分の姿を思い出し、体力と気力を回復し、春が過ぎ、夏が来た頃に、急に自分の今の姿をはっきりと鏡の中に見た。全身が映る鏡の中には、髪はボサボサで、でっぷりとだらしなく太り、目の輝きをすっかり失ってしまった、負け犬のような僕がぽつんと立っていた。

僕はその自分の姿を見て愕然とした。学生時代の僕はいつも貧乏で、お金と時間に追われていたけれども、こんな情けない顔をしていたことはなかった。僕はサラリーマンになってすぐに、メチャメチャな仕事を任せられ、オナニーする暇さえないぐらい働いた。恋人を作るなんて暇もなかったし、そんな精神状態じゃなかった。真夜中にタクシーで家に帰ってきて、ウィスキーを煽って、そのまま風呂にも入らず、着替えもしないで眠り、翌朝また仕事に出ていった。ストレスが溜まっていることを自覚する暇もなくて、僕はそのはけ口を食べることと飲むことで発散した。

嵐のような2年間が過ぎようとして、ようやく仕事が少し落ち着いてきたころ、僕は家にMacintoshを買った。使う暇もろくになかったはずなのに、僕の預金通帳はマイナスで、何に使っていたのかさっぱり思い出せないような有り様だった。

Macintoshの前に座り、僕は狂ったように書き始めた。僕は2年ぶりにプライべートな自分の世界を発見した。僕は自分のことを、何から何まで全部晒しものにしたかった。何故そう思ったのかは分からない。でも僕はそうすることでようやく自分が存在していることの意味を見出すことができた。

日記を書き始めたころ、僕の体は明らかに変調を来していた。丸二年に渡る暴飲暴食とストレスのせいで、僕の体はぶくぶくに膨れ上がり、毎晩の痛飲のせいで肌はがさがさに荒れ、手足の指がいつも痺れていた。階段を昇ると息が切れ、電車の中で立っていると目の前が暗くなることが良くあった。女の子の体には、2年近く触れていなかった。

僕は疲労困憊していたんだと思う。そして、僕は風が吹いていることにさえ気付かなかった。

春が来て、僕は小さな、くしゃくしゃの失敗作の恋愛をした。みねちゃん。みねちゃんとのたどたどしい恋は、お世辞にもカッコ良くはなかったけど、僕はそのことを狂ったように毎日日記に書き続けた。2年間置去りにしてきたものがどんなに大切でかけがえのないものかを確認するように、僕は彼女が僕から去って行く様子を毎日この「思うこと」に書き続けた。バランス。僕の中のバランスが狂っていた。ストレスの針が限界を指し、何とかして僕自身を取り戻すために、必死になって僕に日記を書かせていた。

小さな恋が終わり、僕は独りになった。僕は寂しかった。でもそのとき、僕は自分の頭の上に風が吹いていることにようやく気付いた。風はまだ僕のはるか上を爽やかに通り過ぎていき、僕はそれを掴むことができなかった。

僕は疲労困憊していたんだと思う。

夏になって僕はCDを買った。3年ぶりに、CDを買った。音楽を聴いた。涙が出た。

そして僕は日記を通じてニナと知り合った。

風が吹いていた。暑い夏の日の夜だった。

僕達は初対面の夜からへべれけに酔い、蒸し暑い真夜中の公園の砂利の上で寝転んで話をした。

バランス。針が逆に振れる。

秋が過ぎて冬が来て、僕はこの街に引っ越してきた。僕はひたすらニナの温もりを求めた。そして僕は書き続けた。

僕は疲労困憊していたんだと思う。

僕はこの部屋に繭のように閉じ篭り、少しずつ回復した。そして夏が来て、僕はようやく自分の現実の姿を受け入れるための準備ができた。そして僕は鏡に自分の姿を映し、深く傷つき、そしてそれを受け入れた。

僕の頭上を風が吹いていた。僕は手を伸ばしたが、まだそれはとても届きそうになかった。飛び上がってみても、風はまだ僕の指先よりも大分先にあるように思えた。

その時に僕は気付いた。高く飛ぶ為には一度しゃがんで、十分に力を貯めなければならないと言うことを。高く飛ぶ為には、贅肉を落とし、体力をつけなければいけないということを。僕はようやく風を目の前にはっきりと見ることができた。僕はまずは風を掴むための条件を整えなければならないことにようやく気付いた。

今年になって、僕の頭上を爽やかな風が吹いている。手を伸ばせばひょっとしたら届くかも知れない。でもまだ体には余分な贅肉がついているし、僕の胃はまだコンクリでガチガチにしこっていてたまらない。

でも僕はしっかりと風を睨みつけている。もう目を逸らさない。今度風を見失ったら、僕はきっと死ぬまで二度と風を掴むことができないような気がするから。



Sun King / The Beatles


地下鉄の駅で、ばったり今井課長と会った。

髭を伸ばして、精悍な顔になった今井課長と、1年半ぶりに固い握手をして、近いうちに飲む約束をした。

飛び上がるほど、嬉しかった。




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