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求めよ!自分だけの情報を 書評「キュレーションの時代」 by 佐々木俊尚

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「キュレーション」という言葉の意味をご存知だろうか? 「キュレーター」という英単語から派生した新造語である。

“Curator”はもともとは博物館や美術館などで展示を企画したり情報を収集したりする専門家、学芸員を指す言葉であった。

だが、いま「キュレーター」、そして「キュレーション」は、従来とは異なる、新たな意味を持つようになった。

僕らが生きる「キュレーションの時代」とはいったいどのような時代なのだろうか。佐々木俊尚氏が案内してくれる。

 

 

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる

佐々木 俊尚 筑摩書房 2011-02-09 売り上げランキング : 120    

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そもそもなんの話なの?

 

 

さて、そもそも本書「キュレーションの時代」は何の本なのだろうか?

タイトルを見ただけではさっぱり分からないだろう。

勘の良い人なら、佐々木俊尚氏の著書だから、ネットやソーシャル・メディア関係の新しい潮流などを捉えた本では?と思い付くかもしれない。

そう、この本は、ネットとソーシャルメディアが大きな力を持ち、マス・メディアの影響力が限定的となった現代日本における大きなうねり、潮流を、大海原を航海するかの如く案内してくれる時代のガイドブックである。

 

 

本書の1ページ目を開くと、「キュレーション」の定義が書いてある。引用しよう。

 

キュレーション【curation】

無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。

 

この定義を読んでも、何が言いたいのか良く分からない人が多いのではないかと思う。それは著者佐々木俊尚氏の戦略だ。 本書を読み進むことによって、「キュレーション」とは何なのか。そして「キュレーションの時代」とはどんな時代なのかが解き明かされていく。

 

インターネットとソーシャルメディアが変えた僕たちの価値観

 

 

分かりやすい例として、本書では音楽の話からスタートしている。

20年前と今とで、僕らが新しい音楽と触れるきっかけはどのように変化しただろうか。

20年前、僕らが未知のミュージシャンと知り合うきっかけの多くは、テレビやラジオの音楽番組だった。

一部の音楽好きは専門雑誌を買ったりレコード店に通ったりすることで特別な情報を得ていたが、大多数の「普通の人」は、「ザ・ベストテン」や「ベストヒットUSA」などを観て、最新のヒットを追い掛けていたのだ。

テレビ局は数が多い首都圏でも7つしかなく、多感な音楽大好き少年だった僕は、キー局よりも洋楽情報が速く届いたUHFのテレビ神奈川を視聴するために、わざわざ自宅にUHFのアンテナを立てたほどだった。

しかし、そういった努力をしたところで、入ってくる情報は所詮アメリカのヒットチャート、ビルボードのTop 40程度のものだ。

アメリカのFENを聴いたところで同じ。

 

 

ところが現代では僕らの音楽へのアプローチは20年前とは異なってきている。

僕らはSNS経由で友達推薦の無名のアーティストを知り、iTunesストアからダウンロードして一曲だけを購入し、気に入ればアルバムごと買ったりレンタルしたりする。

そしてそのアーティストのことを好きになればFacebookのオフィシャルページを購読したりTwitterアカウントをフォローしたりする。

フォローしたアーティストと僕らはインタラクティブにネットで会話することもでき、直接ライブ情報をゲットしたり未公開の音源ファイルを特典として入手することができたりする。

それはアーティストは全国区のメガヒットを持つようなスーパースターであることは少ない。

限定的な範囲で口コミで広がった、地域や年齢、趣味など特定のクラスタに依存して小規模だが熱心なファンを得た、限定的有名人である。

 

 

メガヒットがなくて誰が困る?

 

 

20年前と現代でどうしてこのような変化が起きたか。

それはマス・メディアの影響力が圧倒的に弱まってきたからである。

インターネットがブロードバンドになって僕らの生活に完全密着するようになるまでは、マスメディアを経由しないと、僕らは情報にアクセスすることができなかった。

だが現代では、僕らはインターネットを使うことで、マスメディアをまったく経由せずに、様々な情報にアクセスすることができるようになった。

山口百恵、松田聖子、マドンナ、マイケル・ジャクソン、安室奈美恵、これらの国内外のビッグ・ネームがメガヒットを量産できたのは、僕ら一般の人々が音楽を選ぶ時の選択肢が限定されていたからに過ぎない。

7つのチャンネルしかないテレビが映し出す歌手からしか選びようがなければ、僕たちの趣向はその範囲から出ることはなく、結果として多くの人が同じアーティストを支持することになった。

 

 

しかし現代ではそのような制約はなくなりつつある。

テレビで常時流れている音楽を皆が聴く訳ではない。

ボサノバが好きな人は、より自分に合ったテイストのボサノバ・アーティストを探すし、女性ジャズ・ヴォーカルが好きならそちらに特化した情報を扱っているサイトやSNSを深堀りすれば良い。

自分が良いな、と感じたものにどんどん特化していき、辿り着いたアーティストにリーチすることが可能となったのだ。

そして人々がそのように活動するようになった結果、マスメディア主導の大手レーベルが抱えるアーティストの、いわゆるメガヒットはほとんど出なくなった。

 

だが、それで誰か困る人がいるだろうか?

 

レコード会社の人は困るだろう。

アーティストを抱える事務所も困るかもしれない。

だが、僕らユーザーはちっとも困らない。むしろ等身大のアーティストと直接会って話をしたり、同じアーティストを好きな人同士で繋がったりできる分、以前よりもより深く、より広く音楽を愛することができる。

好きな音楽が聴けるという意味では、僕らユーザーはちっとも困っていない。

要は流通経路が変わっただけで、本質は変わっていないのだ。

そしてこの変化は音楽の分野だけに起こっていることではない。

映画でも小説でも、そして自動車や洋服などの分野でも、同様の変化が起こっているのだ。

 

 

そしてキュレーション

 

 

さて、ここでようやく本書のタイトルにもなっている「キュレーション」の出番だ。

従来の世界でマス・メディアが担っていた情報の選別と拡散、これを現代のネット社会で行う行為が「キュレーション」、そしてそれを行う人が「キュレーター」である。

ネット上で一定の影響力を持つ立場の人が、自分の信念や趣味などに従って膨大な情報の海からコアとなるネタを選別し、拾い上げた情報を求めている人達に向かって発信する。

これが「キュレーション」である。

端的にいえば、いま僕がこうして佐々木俊尚氏の著書を読み、その結果僕が感じたことをレビューとして僕のブログの読者の皆さんや検索エンジンで情報を探す方達に提供する行為、これも「キュレーション」であり、僕が「キュレーター」ということになる。

ここで一つ大事なことは、キュレーションを行う人物は、ある一定のポリシー、「視座」を持っている必要があるということだ。

情報を取捨選択する基準、趣味、方向性などが毎日ブレまくっていては、情報を受取る側も混乱してしまう。

キュレーターでありたいと願うならば、提供する情報のベースとなる自身の立ち位置をブログやSNSでハッキリ表明しておく必要がある。

 

 

本当に時代はキュレーションなのだろうか?

 

 

というわけで、「キュレーション」、「キュレーター」については理解できた。

だが、僕自身、正直2011年はまだまだ「キュレーションの時代」にはならないのではないか、と感じている。

今回の震災でトイレットペーパーや牛乳を買い占めた人たちを見ていてそう感じた。

インターネットにまったく触れない人たちは、まだまだ多数存在するし、彼らは彼らの情報網で生きているのである。

 

 

世の中の全ての人がインターネットから情報を収集しているわけではない。僕はそう感じている。

ネットで情報を収集している人としていない人の情報格差は広がっている。それは間違いないだろう。

だが、情報を得られていない人たちは、それで別に構わないと思って生きているのではないだろうか。

だとすれば、その人たちは今までどおり、テレビや雑誌から情報を取捨選択し、マスメディアから得た情報に基づいて判断をし、隣近所やお友達のネットワークの範囲から流れてくる噂を信じて行動を起こし、必要のないトイレットペーパーを大量に買い占める。

そんな彼らの行動により、首都圏からトイレットペーパーが消えた。

だとすると、「キュレーションの時代」は僕らの世界に一気にやってくるのではなく、ネット活用者の間にジワジワと広がり、世の中をまだらに染めていくのではないだろうか。

 

 

まとめ

 

 

本書で佐々木俊尚氏が案内しているキュレーションとその時代の到来については、既に現実のものになっている点も多く、方向性は間違っていないのだと思う。

だが、世の中がネット中心に徐々に変化してはいくものの、1〜2年で従来のメディアが消滅したりマス広告がなくなったりすることはないのではないか。

僕はそう感じている。

キュレーションの時代を受け入れるか拒否するかは、現代に生きる僕たち人間一人一人の判断によって、まだらにやってくるもの。それが僕の結論だ。

情報を選別・収集したいと願っていない人のところには、情報は辿り着くことができないのだから。

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