あなたの温もり 思うこと  不明編



1997年11月26日(水)


Say it (over and over again) / John Coltrane


人間の生を司る機能は、大別して脳と心臓と言うことができる。

脳は制御部、そして心臓は駆動部と考えるとてっとり早いかも知れないが、いずれにしても人間は心臓と脳のどちらが欠けてももはや生きていくことはできない。当たり前だ。

通常人間は無意識のうちに生存している。毎朝目が覚めるたびに「さあ、今日も力いっぱい生きるぞ」と気合を入れなくても僕達は勝手に毎日生きているし、逆に、「さて、今から死ぬか」と思っても、何らかの外因的要素が加わらなければ、思い通りの瞬間に勝手に死ぬということもない。

そうなってくると僕達はもし本当に自分で死んでしまおうと思ったら、手首を切るなり睡眠薬を大量に飲むなり通勤電車に飛び込むなりビルの屋上から飛び降りるなりと言った、かなり極端な行動をとることになる。

しかし、いかに自分でもう死のうと思ったとしても、心臓が止まらないことにはなかなか死ぬことができない。どんなに自分が死というものを選択したとしても、心臓が脳の指令に従って自主的に活動を停止するということはありえないからだ。

どんなに死を望んでいたとしても、それはあくまでも僕達の思考がそれを望んでいるだけで、固体としての総体的な人間の僕の肉体はちっとも死なんてものを望んでいないことが殆どである。たとえ悪性の病気に肉体を蝕まれていたとしても、体中の細胞は常に生きるために必死に闘い続けており、その闘いは肉体が生命を維持する力を使い果たすまではずっと続いていく。

最愛の恋人と抱き合っている瞬間の人間の心臓も、今から死を選ぼうとしている人間の心臓も、同じように規則的に血液を体中に送り出し、常に必死に生きようと活動を続けている。どんなに絶望しようと、どんなに有頂天になろうと、僕達の肉体は常に生き続ける為に猛スピードで活動を続けている。

人間は進化の過程で思考というものを手に入れたが、「考える」という行為を取得したことによって僕達がしあわせになったのか、それとも不幸になったのか、そんなことはもちろん僕には決めることができない。

ただ言えるのは、僕達の肉体を構成している細胞は数年の周期で全て入れ替わって行くと言うことだ。10年前、大学をサボってバンドばかりにのめり込み、自分のエネルギーを発散する方法を見つけられずに周囲の人を無意味に傷つけた頃の僕の体を構成していた細胞は、今の僕の肉体にはもちろん残っていない。残っているのは外的な環境と記憶だけだ。同じ街、同じ建物、同じ人々、あのころ自分が存在していたという記憶。

僕達はいつも思考が肉体を支配していると思いながらも、本当は肉体によって思考させられているのかも知れない。

妙に蒸し暑い帰りの通勤電車の中でそんなことをぼんやりと考えながら、僕は右手の指で左手首の血管に触れてみた。当たり前だがひどく規則的に血液が全身を巡っていることを感じた。トクッ、トクッという血管の感触をしばらく感じていたら、突然村上春樹の言葉が僕の頭の中に飛び込んできた。

「自分に同情するな」

「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」

僕はぎっしりと詰め込まれた会社帰りの人達をぐるりと眺め、それから自分自身を眺めた。そして僕は自分のプライドを切り売りして生きてはいけないと、改めて思った。




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